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2024-04-30 20:30 | カテゴリ:未分類
以下は、兵庫県芦屋市長に当選して、一年を経過した高島りょうすけさんのX(旧Twitter)からの一部転載です。

私見では高島市長の言い回しは、非常に腰が低くてもどかしいくらいです。それは彼が一度芦屋市の教育長の推薦に市議会の賛同を得られなかった挫折経験から来る謙虚さだと思われます。

現今の日本の教育行政に対する実に的確な建設的な提案だと思われます。

勝手な想像ですが、彼のことだから、最近の生成AIの驚異的な発展のことなどは、百も承知のことと思われます。早くそれを小中高教育に導入したい、とはやる気持ちを抑えての提案かと思われます。

黒板などを使わなくても、各人生徒に与えたコンピューターで、生徒たちが積極的に設問を発して好きなことを「探究」するやり方を補助自我する、という技能を教員が身に着けていることは、今後の教員採用の最低の必須条件になるべきだと思われます。

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【公立高校入試と教員採用試験。そろそろ変えませんか。】
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いま学校の教育内容は、「主体的・対話的で深い学び」を目指し、大きく変わろうとしています。中でも芦屋市では、「探究」を大切にしています。それは、自らの問いから学びを始める「探究」を通じて、一人ひとりの学びへの意欲を引き出し、一人ひとりに合ったインクルーシブな学びが実現できると確信しているからです。

現場の先生方は日々努力してくださっていますが、ボトルネックになっている点があります。

■高校入試、もっと探究的なスタイルにしませんか

1つ目の課題は、公立高校入試。

先日、全国学力・学習状況調査が行われました。私も先日投稿したように、問題を一部解いてみました。単に知識を問うだけでなく、表現の工夫を求める問題、それを自ら解説させるような問題もあり、探究的だと感じました。 一方、今回の公立高校入試の問題も見てみました。問題作成者のご努力は感じますが、工夫の余地が大いにある問題だと感じました。

■高校受検の内容で、中学での学びのスタイルは決まってしまいます

芦屋市の公立中学校の生徒は、ほぼ全員が高校受検をします。当然、中学の先生は高校入試を意識せざるを得ません。保護者も、そして生徒本人も同じです。

中学校は、学びの変革の大きな流れと、現実としての高校入試との間で、いままさに板挟みです。

だからこそ、⾃分で問題を発⾒し深める「探究」、⾃分なりの価値を創り出す「創造」を促すような試験に変えていくべきではないでしょうか。 芦屋市では今年度から独自に、ONE Steppersという取り組みで、探究の授業に取り組む先生を応援しています。筆記試験でも探究を意識できることは、学力調査でわかりました。さらに進んだ自己表現のような手法も含め、「探究型」への中学校の授業改善を促すような高校入試改革を期待します。

■未だに「板書」能力を評価する教員採用試験でよいのでしょうか

2つ目の課題は、教員採用試験です。どれだけ新しい技術が入っても、それを使う、日々生徒と向き合う先生の力こそが何より重要です。
これほど「主体的・対話的で深い学び」が求められているにも関わらず、聞くところによると採用試験の大まかな内容は、数十年来変わっていないようです。

例えば模擬授業は、未だに「必ず黒板を使用する」となっています。近年ICTを用いた模擬授業が一部の教科で加わったようですが、小学校ではまだ板書必須のまま。そもそも「教える」力だけを評価するいまの採用試験は、時代に合っているのでしょうか。

今こそ、教員採用についても、より柔軟で時代に沿ったあり方に向けた検討を開始すべきではないかと私は考えます。

■試験の内容は、学ぶ者への大きなメッセージ。

この2つの試験に限らず、試験というものは、大きなメッセージになります。試験のスタイルによって、合格を目指す者の学びのスタイルは変わるんです。みなさんも、「試験対策」をした経験がありますよね。

どれだけ現場が授業を変えようと頑張っても、最終的に試験が変わらない限り、昔ながらのやり方を続けざるを得ない現状があります。私は、今の試験には全く意味がない、とは思いません。ただ、新しい時代を見据え、小中学校での学びをより良いものにするため、工夫は不可欠だと思います。それが22世紀を生きる子どもたちのためだと信じています。

私ができるのは、問題提起までです。兵庫県教育委員会の今後の取組に期待したいと思います。

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(森敏)

付記:小生は高島君にお会いしたこともありませんが、灘高と東大(彼は東大には半年しか在籍せず、途中からハーバード大学に飛躍したようなのですが)の後輩で、新進気鋭の最年少の市長なので、未熟なままでつぶされないで、しっかりと前に進んでもらいたいと、陰ながら応援しております。芦屋市はわが第二の故郷でもありますので。。。

彼の提案が一日でも早く実現することを祈ります。
2024-04-28 16:58 | カテゴリ:未分類
文京区立森鷗外記念館が 「教壇に立った鷗外先生」という特別展を開催している【4月13日(土)―6月30日(日)】。小生はこの記念館の年会員になっているので、本日はあまりの日照りの良さにかこつけて出かけた。ここのレストランで昼食をとる意図もあった。
 
今回の見学の目的は、これまでは森鴎外の作品などに興味があったのだが、実際には彼がドイツ帰国後、本当は小説を書きたいのに、陸軍省の勧めで陸軍軍医学校教官、校長としてや、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長として、無理やり力を傾注せざるを得なかった栄養学や衛生学の分野での活躍を知る意味もあった。

鷗外は、陸軍衛生教程、衛生学教科書(上・下)、衛生新編(小池正直との共著:日本人による最初の衛生学教科書)、衛生学大意(談話の記録)を著わし、衛生学実習を指導した。研究面では小池正直と共著で「壁湿検定報告」、大井玄洞・飯島新吉と共著の「兵食検査の成績中タンパク及び温量多寡の事」という分析結果にもとづいて「戦時糧食品区分表に関する意見」、「戦時の兵食(鉄糧を除く)」などを上層部に上申している。(この件「付記」に後述)
 
さらに、新設の東京美術学校では岡倉天心に乞われて、美術解剖学で嘱託講師を務め、「芸用解体学」、「芸用解剖学 骨論之部」(久米桂一朗との共著)を表している。これはダビンチやミケランジェロの影響を受けたもののようで、ドイツの解剖学書者コールマンによる美術解剖学書「造形的解体学」の引き写しが散見されるようである。
 
鷗外は早稲田大学、慶応義塾大学でも教鞭をとり、国定教科書の編纂には死の直前の2年前までの長きにわたって参画している。
 
一通り特別展示の部分だけを見終わって(通常展示は飽きているので)、11時半ごろに一階のレストランで軽食をした。W字パンと、ヨーグルトと、ザワークラウトと、キュウリとオリーブの酢漬けとコーヒーで、しばし森鴎外が留学していたころのドイツを思い浮かべた。
 
(森敏)
 
付記:会場で880円で購入した「教壇に立った鷗外先生」というパンフレットによれば、
「明治22年、鷗外は兵食試験委員となった。兵卒など19人に米色、米麦混合食、パン食をとらせ、排せつ物からタンパク質、炭水化物などを定量分析し、たんぱく質の吸収量、摂取カロリー(温量)を比較した。そして米食が優位の結果を得る。結果をもとに、戦争時の兵士の糧食(食料)の増加量について、「戦時糧食品区分表に関する意見」を取りまとめた。これらは「携帯糧食審査に関する第一報告」として印刷され、携帯糧食改良の資料となった」
 
これが実は以下に記すように災いの元になっているのである。
   
以下生成AIが簡単にまとめてくれた、森鷗外が関係した「脚気論争」を紹介しておきます(昔のWINEPブログでも小生が独自に紹介しております)
    
森鷗外(本名:森林太郎)の時代には、日本の陸軍と海軍の間で脚気の原因と治療法について大きな論争がありました。

この論争は、特に日清戦争と日露戦争の間に顕著でした。陸軍では、森鷗外が主導し、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説(すなわち主食は白米で良しとする)を支持していました。その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡しました。

一方、海軍では高木兼寛が脚気の原因が食事にあるという見解を早くから持っていました。彼は兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を大幅に減少させました。その結果、日清戦争では海軍兵士の脚気による死亡はゼロ、日露戦争ではわずか三人でした。

この論争は、後に「脚気論争」と呼ばれ、日本の医学史上の重要な出来事となりました。森鷗外の細菌説と高木兼寛の栄養欠陥説の間のこの論争は、脚気の真の原因と治療法の理解に大きく寄与しました。

最終的には、脚気はオリザニン、(のちにビタミンB1(チアミン)と命名された)の欠乏によるものであることが東大農芸化学科の鈴木梅太郎により明らかになりました。

2024-04-28 06:27 | カテゴリ:未分類
キリスト教の司祭たちは生成AIをどのように使っていますか?日本でも外国でも、その教会での使用例をわかったら教えてください。とAIに聞いたところ、いくつかの答えが返ってきた。その引用元をいろいろと辿っていくと結局以下のような暫定的な話に収れんした。日本でのキリスト教会での実施例は今のところ見つからなかった。

ドイツの教会:2023年6月9日にドイツのキリスト教教会で行われた礼拝では、スクリーンに投影されたアバターがAIにより生成された言葉で説教を行いました。この礼拝は、ウィーン大学の神学者であるJonas Simmerlein氏が作成し、98%は機械で作られました。このAIによる礼拝は、ドイツの複数の地域で行われる「Deutscher Evangelischer Kirchentag (ドイツ福音主義教会大会)」という大会の一環として行われました。

ポーランドのカトリック教会:ポーランドのワルシャワにあるカトリック教会には、「SanTo」と名乗るロボットの礼拝コンパニオンが存在し、信徒との対話に応じています。SanToの中には2000年分のカトリック信仰の知識がプログラミングされています

英国国教会の取り組み:英国国教会は2018年から米アマゾン社の音声認識AIアシスタント「アレクサ」を使い、人々の祈りや教会探しを支援するサービスを行っています。

洗練された将来のAIは、福音を伝える相手の状況を、瞬時に、かつ正確に判断し、それまで蓄積された多くの選択肢から最善の方法を選び、効果的に福音を伝えるようになると考えられています。

AIは信者の理解を深める手段として有用ですが、人間の司祭が持つ魂や信者との深いつながりを持つことはできません。それぞれの教会や信者が、AIをどの程度取り入れるかは、その教会や信者の判断に委ねられています。


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ということです。日本では同志社大学あたりが、新しい試みをやっているようです。


(森敏)
2024-04-27 14:35 | カテゴリ:未分類
図書館で宗教関連の雑誌をめくっていたら 「月刊住職」(4月号)という雑誌がありその中にシンポ「AI時代の信仰」という記事が掲載されていた。2024年2月26日に増上寺で開かれたシンポジウムの取りまとめ記事である。ちなみに、小生がこの雑誌を手に取るのは初めてである。宗教なるものにはとんと疎いので、こんな雑誌があることさえ知らなかった。
 
このWINEPブログの少しまえの記事で、宗教者がよほど修業を積まないと生成AIが宗教に取って代わるかもしれない、という小生の懸念を紹介したが、この「月刊住職」でのシンポジウムでは、すでにその懸念が喧々諤々討論されたようである。
 
参加者15人(ウエブ参加者150人以上とか)の意見を取りまとめたこの記事のいくつかの箇所を発言者の氏名をいちいち示さずに、飛び飛びに順不同で引用すると、

:::::ブッダボットとは仏教対話AIで、仏教の視点から現代人の悩みに回答させるべく、京都大学の熊谷誠慈教授を中心に開発が進められている。このブッダボットプロジェクトは::::仏教離れの現状をいかに打開するか議論を重ねる中で、:::ブッダのような存在をAIで再現できないかという着想に到達したものです:::::
 
:::::これらを拡張現実に置いたのが「テラ・プラットフォームAR」でスマトフォンの画面にブッダボットのアバター(分身)を呼び出し、話しかけて質問するすると仏典に基づいた回答をしてくれるというものなのだ::::
 
::::ブッダボットが普及すればお寺に人がいかなくなり、出発点であったはずの仏教の形骸化がさらに進んでしまうのではないでしょうか:::::
 
:::::これまで蓄積したデータをAIで結び付けて、今まで呪文にしか聞こえていなかったお坊さんのお経のことばが、こんなこと言っていたのかと分かる環境を作る、そんな風にAIで使っていけたらいいなと思っています:::::
 
::::::僧侶に対する信頼は低下しています。仏教離れは仏教が時代に合っていないからではなく、坊さんが嫌われているというデータもありました::::::
 
:::::AIは実は日本がもう一度豊かな国になるための一つの手段だと思うので、みんなよく考えてほしいと思います::::::
 
:::::考えてみたら、AIに苦(くるしみ)はないのだから、煩悩に振り回されることはないのではないか。AIこそ本当の解脱者、ブッダなのでしょうか:::::
 
:::::AIを信仰するという話題がありましたが、AIは単なるプログラムですし、限界もあり、そんなもの全然信じられないと私は思っています::::
 
最後にこの記事の筆者は::::::「仏教者がAIを敵視するのも依存しすぎるのも望ましくない。最新技術とどう付き合い、如何に活用していくかが我々一人一人に問われているといえよう。」と締めくくっている。
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この記事を引き写しながら思ったのだが、「仏典」同様に「聖書」にも長い歴史がある。教会の司祭たちは生成AIと宗教について、どういう危機意識を持っているか、知りたいものだ。


(森敏)



2024-04-24 16:58 | カテゴリ:未分類
小生:
「身体を持ったヒトが扱う言語には身体性が含まれている以上、言語を学んだAIが感覚を理解していないと、どうして言い切れるのだろうか」とウイスコンシン大学マデイソン校のルピアン博士が主張しているようです。この点についてAIの立場から論じてくれませんか?

Copilot:
ルピアン博士の主張は、人間の言語が身体性を含むという観点から非常に興味深いものです。AIが言語を学ぶとき、それは基本的にパターン認識と統計的な学習によるもので、人間が言語を学ぶプロセスとは根本的に異なります。

人間が言語を学ぶとき、それは感覚的な経験と密接に結びついています。例えば、「暖かい」や「冷たい」といった感覚的な言葉は、直接的な身体的な経験を通じて理解されます。しかし、AIはこのような身体的な経験を持たないため、言葉の意味を理解するという点で限界があります。

AIが「暖かい」や「冷たい」といった言葉を理解するとき、それは大量のテキストデータから抽出されたパターンや文脈に基づいています。AIは「暖かい」が「寒い」の反対であると学びますが、それは統計的なパターンから導き出された知識であり、人間が感じる「暖かさ」や「寒さ」を直接的に理解しているわけではありません。

したがって、AIが言語を理解していると言っても、それは人間が言語を理解する方法とは異なる、というのがAIの立場からの見解です。AIの言語理解は、パターン認識と統計的な学習に基づいており、人間のような感覚的な経験には基づいていません。この点を理解することは、AIの能力と限界を理解する上で重要です。


小生:
それでは人間が「虚無」と感じる言葉は、AIはどういう概念だと、認識しておりますか?

Copilot:
AIが「虚無」を理解する方法は、人間がそれを理解する方法とは大きく異なります。人間が「虚無」を感じるとき、それはしばしば存在の欠如、何もない状態、または空虚感を指す抽象的な概念です。これは深い感情的な経験や哲学的な思考に基づくことが多いです。

一方、AIは感情を経験する能力を持たず、哲学的な思考をする能力もありません。そのため、AIが「虚無」を理解するとき、それは主に言語的な文脈やパターンに基づいています。AIは「虚無」を「存在しないこと」や「何もない状態」などの定義や、それが使われる文脈から理解します。

しかし、人間が「虚無」を感じるときの深い感情的な経験や哲学的な理解をAIが持つことはできません。したがって、AIが「虚無」を理解すると言っても、それは人間がその概念を理解する方法とは大きく異なるということを理解することが重要です。AIの理解は、あくまで言語的な文脈とパターンに基づいたものであり、人間のような感覚的な経験には基づいていません。この点を理解することは、AIの能力と限界を理解する上で重要です。

小生:
人間は様々な場面での身体的な感覚的な経験に基づいてある種の「言語」を発しているのだから、逆に、その言語を投げかけられたときにAIがその身体的な感覚の集合体を直ちに認識(?)していると考えられませんか?

Copilot:
それは非常に興味深い視点ですが、現在のAI技術では、人間の身体的な感覚の集合体を直接的に認識することはできません。AIは、大量のテキストデータからパターンを学び、それを基に言語を理解します。しかし、これはあくまで言語的な文脈とパターンに基づいた理解であり、人間が身体的な感覚を通じて得る直感的な理解とは異なります。

例えば、人間が「痛み」を感じるとき、それは身体的な経験に基づいています。しかし、AIが「痛み」の概念を理解するとき、それは「痛み」が使われる文脈や、他の言葉との関連性から学びます。AIは「痛み」を身体的な感覚として経験することはありません。

したがって、AIが人間の言語を理解するとき、それはあくまで言語的な文脈とパターンに基づいたものであり、人間のような感覚的な経験には基づいていません。この点を理解することは、AIの能力と限界を理解する上で重要です。

小生:
AIはまだ哲学的論議が苦手ですか?今後いつごろになったらそれができるようになると予測できますか? 対話に行き詰まると、エンドレスにおなじ言葉を繰り返してくるので。

Copilot:
AIが哲学的な議論を行う能力は、現在のところ限定的です。AIは大量のデータからパターンを学び、それに基づいて応答しますが、人間が持つような直感的な理解や深い洞察を持つことはできません。哲学的な議論はしばしばこれらの要素を必要とするため、AIはそのような議論に完全に参加することは難しいです。

また、AIが哲学的な議論を行えるようになる具体的な時期を予測することは難しいです。AIの進歩は多くの要素に依存しており、技術的な進歩だけでなく、倫理的な考慮事項や社会的な影響も考慮に入れる必要があります。

そして、私が同じ言葉を繰り返す問題については、申し訳ありません。これはAIの応答生成の制限によるもので、改善の余地があります。私たちは常にユーザー体験の向上を目指しており、フィードバックは大変貴重です。ありがとうございます。

小生:
AIと人間の思考能力にはどのような違いがありますか?

Copilot:
AIと人間の思考能力にはいくつかの重要な違いがあります。

1. 感覚的な経験: 人間は五感を通じて世界を経験します。これらの感覚的な経験は、私たちの思考、感情、記憶、そして言語の理解に深く影響を与えます。一方、AIは感覚的な経験を持たず、その代わりに大量のデータとアルゴリズムを用いてパターンを学びます。

2. 自己意識: 人間は自己意識を持ち、自分自身と他者を区別する能力があります。これに対して、AIは自己意識を持たず、自己と他者を区別する能力もありません。

3. 感情: 人間は感情を経験し、それが思考や行動に影響を与えます。しかし、AIは感情を経験する能力を持たず、感情に基づいて行動することもありません。

4. 創造性: 人間は新しいアイデアを生み出す能力を持ち、それが芸術、音楽、文学、科学などの多くの分野で表現されます。AIも一定の「創造性」を示すことができますが、それはあくまで学習したパターンを基にしたものであり、人間のような直感的な創造性はありません。

5. 倫理と道徳: 人間は倫理的な判断を下す能力を持ち、それが社会的な行動の規範を形成します。一方、AIは倫理的な判断を下す能力を持たず、プログラムされたルールに従うだけです。

これらはAIと人間の思考能力の違いの一部に過ぎませんが、AIの進歩により、これらの違いがどのように変化するかを見るのは興味深いことでしょう。しかし、現時点では、AIは人間の思考の複雑さと深さを完全に模倣することはできません。AIの能力と限界を理解することは、その使用と発展における重要な考慮事項です。

小生:
「人間の直感的な創造性」もAIがそうするように、本人がそれまで学習したパターンにもとずいている可能性もあると思いますが? ただ本人が意識していなかった(下意識が行う操作)だけのことではないですかね?

Copilot:
その観点は非常に興味深いですね。人間の創造性も、確かに過去の経験や学習した知識に基づいている部分があります。それは意識的な思考だけでなく、無意識のレベルでの情報処理も含まれています。この点では、AIと人間の創造性の間に一定の類似性があると言えるかもしれません。

しかし、人間の創造性はそれだけではありません。人間は新しいアイデアを生み出すために、直感、感情、価値観、個人的な経験など、AIが持つことのできない多くの要素を用います。これらの要素は、人間の創造性が単なるパターン認識を超えて、本当に新しいアイデアを生み出すことを可能にします。

AIは、学習したパターンを組み合わせて新しいパターンを生成することができますが、それはあくまで既存のデータに基づいています。AIは直感や感情を経験することができず、人間のように自己意識を持つこともできません。したがって、AIの「創造性」は、人間のそれとは基本的に異なる性質を持っています。

これらの違いを理解することは、AIの能力と限界を正しく理解する上で重要です。AIは多くのタスクで人間を補完することができますが、人間の直感的な創造性を完全に模倣または置き換えることは現在のところ不可能です。これは、AIの進歩とともに変わる可能性がありますが、現時点ではこれが現実です。この点を理解することは、AIの使用と発展における重要な考慮事項です。

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今のところAIは自暴自棄にならずに、繰り返し同じような回答をしてくれている。少しずつ議論が深まっている様にも見える。しかしAIの側からは決して新しいアイデアを提供してくれることはない。ちょっと残念だけれども。

(森敏)