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2019-08-31 14:19 | カテゴリ:未分類

    体調がよかったので調子に乗ってアニメ映画『天気の子』を上野の映画館に見に行った。その気になれば自宅からバスで10分で行けるところである。

 

    『天気の子』(新海誠監督) はアニメ映画であるが、国内興行売り上げが100億円以上の記録を更新し続けているというので、若い人の感性に遅れまいという、情けないが野次馬的興味もあった。

 

    高畑監督の『かぐや姫』以来の漫画映画の鑑賞なので、あちこちで戸惑ったし、全体を通じて、もやもや感が残った。

 

    余りに場面展開が早すぎて、ほうほうの体で小生の老化した頭が付いていくぶざまであった。

 

    それでも、観客には結構年配の方も10分の一ぐらいはいたので、すこし驚いた。

 

    感心したのはビル街の風景描写の巧みさである。「天気の子」の巫女である女の子が祈ると、次第に大雨から天気に空が晴れ渡っていき、ビル街が輝き始める。それが非常に美しい。そのような「陰から陽」「鬱から躁」へのグラデ-ション映像場面の繰り返しが、いったいどんな技法で行われているのか、小生には見当もつかなかった。その進歩したデジタル技術に驚嘆した(専門家には大したことではないのかもしれないが)。

 

    この映画は一回見ただけではたぶん作者の言いたいことの3分の一も理解できていないように思った。おかねと時間の余裕があれば、最低3回は見るべき価値がある映画だと思う。(別に宣伝するわけではございません)

  
   


(森敏)
2019-08-28 13:24 | カテゴリ:未分類

種をまく人1 
母なる大地で女たちは愛のタネを蒔き人生の実を刈り取っていく(宣伝文より)

  
 

  現在進行形の「鍼灸」の効果を確かめるために、映画館で2時間ばかりじっと座って画面に集中できるか、試しに神保町の「岩波ホール」に出かけた。

 

  安全を取って、一番後部座席で鑑賞した。幸いなことに、いつもの下肢の痙攣は起こらず、映画に集中でき、途中退場しなくてもよかったのはありがたかった。治療の効果が出てきているのかも知れないと、少し楽観的になれた。

 

  映画は『田園の守り人たち』というタイトルであった。今年の7月6日から延々上演されているのでずっと気になっていた。ストーリーの中身は、1914年から1920年までの第一次世界大戦の最中に、男手を独仏戦争に駆り出されて田園に取り残された女性たちの互いの葛藤がテーマである。主婦は未亡人であり、長女は夫を徴兵され、彼はドイツの捕虜になる。長男は結局戦死する。次男が兵役から一時休暇で帰郷して、この家族に臨時雇用されている女性フランシーヌと風波を立てることになる。

 

  しかし、小生の目には、この映画では季節を巡る映像の農作業や田園風景の美しさが際立っていた。誰もがミレーの『落穂拾い』や『晩鐘』や『種蒔く人』を鑑賞した時のノスタルジーを感じたことだろう。

 

  この繰り返される種まきや収穫の作業は小生には見ていて飽きることがなかった。小麦の収穫作業が、手刈り、馬車を用いた機械狩り、から、戦後はアメリカ兵が残していったデイーゼルエンジントラクターによる収穫機へと目まぐるしい近代化を遂げる経過も、実に興味深かった。

 

  もちろん延々5分間ばかり(?)繰り返されるオーソドックスなベッドシーンも、非常に魅力的だった。この場面では場内は息をのんでいたように感じた。

  

 

 

(森敏)
追記:1か月後に浅草で芝居を観たのだが、ここの椅子が固くて、二時間の行興時間のうちの、前座の1時間が終わって、足がしびれてきて、結局本番を観ずに退散した。用心して一番後部座席に座っていたのだが、予想通りの体調変化が起こってしまった。役者さんたちには失礼してしまった。

 

2019-08-23 20:58 | カテゴリ:未分類

     以下の図1は左と右の靴が異なる中敷きである。いずれも表側である。
     以下の図2は図1のままのオートラジオグラフである。
 
     以下の表1は中敷き全体の総放射能値を示している。いつも示している ベクレル(:Bq) / kg乾物重 という単位ではないことにご注意いただきたい。靴の中敷きは生き物ではないので、重さ当たりの放射能を示してもあまり意味がないだろう。総量でどれだけ放射能を浴びているかが問題である。

     表面汚染の指標であるガイガーカウンターでの表面の放射能は一番濃いところで
左が4500cpm/平方センチメートル、
右が900cpm/平方センチメートル
であった。
 
   
 

 
  
 スライド1
図1.二種類の靴の中敷き。共に左足の表側。
 
 

 
スライド2 
図2.左が右の5倍ぐらい強烈に汚染している。

 
 
 表1 総放射能値
nakajiki2.jpg

   

(森敏)
2019-08-18 16:20 | カテゴリ:未分類

福島原発による放射性セシウム汚染対策関連の発表題目
(氏名は長くなるのでfirst,second・・・・  last authorのみを示している)の紹介

日本土壌肥料学会 於:静岡大学にて開催予定 (2019年9月3~5日).

 
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土壌―水稲系での放射性セシウムの移行を規定する物理化学的および時間的要因

吉川省子・井倉将人・江口定夫

 

放射性セシウム対策実施水田におけるカリウム収支

錦織達啓・久保田富次郎・宮津進

 

森林生態系における安定セシウムの分布と循環

伊藤優子・小林政広・今矢明宏

 

福島県内農耕地土壌におけるセシウム133固定ポテンシャルと粘土鉱物組成

加藤 拓・今野裕也・・・・・前田良之

 

有機物除去に伴う放射性セシウム吸着能の変化

中尾淳・田代有希・・・・矢内純太

 

白花ルーピンのカリウム欠乏下における不可給態カリウムおよびセシウムの可給化機構

藤本久恵・高雄惇英・・・・・渡部敏裕

 

ラジオアイソトープを用いた植物体内の元素動態のイメージング

鈴井伸郎・河地有木・・・・松本幹雄

 

塩化ナトリウム施用下でのキノアによるセシウム吸収について

磯部勝孝・肥後昌男

 

水稲におけるセシウム体内輸送へのOsHAK5の関与の可能性

頼泰樹・古川純・・・・・服部浩之

 

Contribution of SKOR gene to Cs and K absorption and translocation in plants

菅野里美・Ludovic Martin・・・・Nathalie LEONHARDT

 

K減肥水田土壌での放射性Csの玄米への移行抑制に必要な非交換態K量の検討

黒川耕平・中尾淳‥‥‥矢内純太

 

牧草中放射性セシウム濃度の経時変化と土壌の放射性セシウム存在画分からの移行推定

山田大吾・塚田祥文・・・栂村恭子

 

土壌から牧草とイネへの放射性セシウムの移行実験と移行モデルの評価

植松慎一郎・・・・・・Erik Smolders

 

イネ玄米中の放射性セシウム含量品種間差をもたらす原因遺伝子

大津(大鎌)直子・福原いずみ・・・横山正

 

ダイズの放射性セシウム吸収に関与する異伝因子の探索 その1:QTL-seq解析による大豆の放射性セシウム吸収に関与する遺伝子領域の解明

宇田真悟・山田哲也・・・・横山正

 

福島県内の水田におけるカリ収支とカリ集積量

藤村恵人・若林正吉・・・・・遠藤わか菜

 

福島県内の農地における放射性物質に関する研究(第46報) 中山間地域における除染後水田での均平対策後の牛糞堆肥による地力回復効果

松岡宏明・斎藤正明・・・信濃卓郎

 

試験水田における灌漑水・間隙水中137Cs濃度と変動要因

塚田祥文・斎藤隆

 

除染後圃場での堆肥施用がダイズ生育と放射性セシウムの移行に及ぼす影響

久保堅司・木田義信・・・・・信濃卓郎

 

放射能による樹皮汚染の立体可視化の手法について

森敏・加賀谷雅道・・・・中西啓仁

 

福島県内の農地における放射性物質に関する研究(第47報) 

低カリウム条件下における飼料用米・品種系統のCs-137移行リスク評価手法の開発

斎藤隆・菅野拓郎・・・・横山正

 

土壌還元が水稲の放射性セシウム移行に及ぼす影響

若林正吉・藤村恵人・・・・太田健

 

セシウム吸着シートを用いた畑地土壌における溶存態放射性セシウム量の変動把握

井倉正人・吉川省子・杉山恵

 

溶存有機物による風化花崗岩土壌中のセシウムの移動促進効果

辰野宇大・濱本昌一郎・・西村拓

 

天水田における作土中137Csの滞留半減時間の推定

原田直樹・鈴木一輝・・・吉川夏樹

 

ダイズ子実の放射性セシウム濃度を効果的に低減させるために必要な時間の検討(1)

関口哲生・木方展治・井倉将人

 

土壌表層へ附加された底泥からイネへの放射性Cs移行

安瀬大和・松原達也・・・・・鈴木一樹

 

灌漑水田由来放射性Csの水田土壌表層への蓄積

星野大空・荒井俊紀・・・・原田直樹

 

異なる耕起法による更新を行った除染後採草地の土壌中放射性セシウムの濃度分布について

渋谷岳・伊吹俊彦・新藤和政

 

ドローン空撮を用いた除染後水田における土壌炭素・窒素濃度の面的予測の試み

戸上和樹・永田修

 

蛍光版を利用したオートラジオグラフィー技術で植物体内の元素動態を見る

栗田圭輔・鈴井信郎・・・・・・酒井卓郎

 

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(森敏)
付記:
  以上のように、今年は31課題の放射能汚染関連の研究発表がある。大学の研究者や現場の農業技術者は、福島農業の復興のために、2011年に発生した福島原発事故のしりぬぐいを8年間にわたって延々とさせられているわけである。実に地道な研究活動というべきであろう。
 
  しかし、原発事故という人類にとって未曽有の負の遺産を逆手にとって、これを契機にして、新しい自然現象の発見や新規技術開発をおこない、次世代人類生存のための学問も新しく発展していくべきなのである。そうでなければいつまで経っても被災者心理は救われないだろう。

  過去に遡れば、古河鉱業(足尾銅山)による渡良瀬川流域の銅による鉱毒汚染、神岡鉱山による神通川流域カドミウム汚染(イタイイタイ病)、窒素水俣工場による水俣湾の水銀汚染(水俣病)などなど、鉱毒、公害、による人体・環境汚染は、皮肉なことに、それを修復回復させるための医学・生物学・環境科学などを遅々とではあるが発展させてきたのである。

2019-08-13 10:46 | カテゴリ:未分類

「群青」江川友治先生の生涯 
「群青」(続編)江川友治先生の生涯
  

(明治大学農学部江川研究室OB会編集。著者江川友治。協力者江川浩子。前者は 2015年5月23日発行、後者は2018年7月14日発行)

 

という、2つの冊子体(全部で44頁)の寄贈を受けた。

 

この本に記されている、江川友治さんの経歴を略記すると、江川さんは1941年3月に東大農芸化学科生物化学専攻を卒業して、当時西ヶ原にあった農業技術研究所の三井進午技師の部屋に配属された。この年12月8日に日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入した。翌17年4月江川さんに「赤紙」(召集令状)が来て、福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、昭和20年8月敗戦で復員し元の三井研究室に復職した。その後農水省内で知る人ぞ知るで赫各たる研究業績と行政手腕を発揮していった。退職後明治大学に再就職されたようである。2012年逝去。

 

この冊子の中には江川先生のうめきのような憂国の反戦思想が詠まれているので、8月15日の敗戦記念日を迎えるにあたって、以下にその一部を無断引用させていただいた。

 

  

戦争は遠き昔のことなれど忘れ得べきや雨の塹壕

 

物忘れ激しくなりし老いの日に忘れ得べきや惨の戦場

 

銃抱きて雨の塹壕に眠りたる中国河北省保定を思う

 

自死したるあまた兵らを見捨てたる中国戦場湘桂難路

 

なぐられて殴り返さん術もなくただ耐えしのみ兵たりし日は

 

「赤紙」も「召集令状」も死語となり憲法九条すがる思いに

 

改憲は命かけて阻むべし惨の戦争を知りたるわれら

 

 

冊子の最後には、江川先生の言葉としてこう記されている。

 

::::

さて、軍部の独走による戦争をなぜ食い止められなかったのか、という問題ですが、これが問題です。その原因は長い歴史的なものがあると思いますが、その中心となることは、学問、言論、思想の自由が完全に圧殺され、軍政府による一方的な情報だけが国民に伝えられたということではないかと思います。

  

   


(森敏)
付記1:ここに登場する三井進午技師は、のちに東大農芸化学科肥料学研究室教授となって赴任した小生の指導教官でもある。
 
 生死の境の戦場を潜り抜けて、復員してきた江川さんの、その当時の精神は無頼の徒で怖いもの知らずであっただろう。労働組合を結成して、西ヶ原の農業試験場では意気軒高にふるまっていたのではないかと想像される。研究姿勢にはめちゃくちゃ厳しかったが、思想的には温厚であった三井進午技師は、研究室の同じ大学の農芸化学科の後輩の江川さんにはいささか手を焼いていたのではないかと想像した。
 
付記2:明治大学農学部江川研究室OB会編集の皆様、無断引用をお許しください。
   
追記1:江川先生のように、戦争を知る世代が高齢で逝去して行く中、今日改憲ムードが深く静かに潜行している。しかしそんななかでも、以下のように、若手政治家から明確な「改憲笑止」勢力が台頭してきたことは本当に心強い。

「安倍晋三首相が狙う憲法改正に関しては「現行憲法も守っていないのに(首相が)改憲を言い出すのは非常に危険だ。寝言は寝てから言ってほしい」。(山本太郎 時事通信へのインタビュー8月11日)
 
追記2: 上記「群青」には、昭和19年(1944年)に江川さんが陸軍少尉になって立川宿舎に一時滞在時に
   
「軍服姿で一時、わが懐かしの三井研究室に突然訪問したら、三井技師が昼間からヘルメットをかぶったまま机に向かっているのを異様に感じた」
  
という記述がある。この年から日本本土への米軍による空襲の本格化が始まったのである。小生はこの記述を読んで、感慨深いものがあった。三井先生はその後、東大肥料学研究室の教授に迎えられ、小生は1963年に卒論生として先生の指導を仰ぐことになった。東大広しと言えども、当時は研究費がなくて、東大ではおそらく三井教授室にだけクーラーが設置されていた。今年のように猛暑の夏には、その教授室で三井先生はすやすやと午睡を取っておられた。今から思うと、三井先生は戦時中の農業技術研究所での研究室の緊迫した雰囲気から大いに解放されて、熟睡されていたのだろう。我々は「ただいま動物実験中」と教授室の扉にひやかしの紙を張り付けたりしていたのだが。