2011-03-21 17:34 | カテゴリ:未分類

放射能の検出の思い出 

   

  1960年に入学した東大教養学部(駒場)の学生の頃、農学部の肥料学教室の教授三井進午教授の「肥料学」の講義を聞いた。

   

  1954年に行われたアメリカの大規模水爆実験を代表とする44回にもわたるビキニ環礁での核実験で、日本にも大量の放射能が飛来した。三井先生は講義の中でその話をしたのである。

   

  三井先生は理研の仁科芳雄博士の弟子で、日本で最初に東京大学農学部に放射性同位元素(ラジオアイソトープ)実験室を立ち上げた人物でもあったので、この核実験の話をはじめとして、放射性同位元素研究の話は、難解であったが迫力に満ちていた。

   

  先生が日本で最初にアメリカの核実験の放射能を検出したのは、4階建ての東大農学部二号館屋上であり、屋上の壁の縁のホコリに放射能があるかと思って、ガイガーカウンターを向けてみると、みるみるうちに数値が上がったので、驚いたということであった。先生は普段から鳥打帽子をかぶっていたので、つぎに自分の帽子の縁をサーベイしたらこれまたガーガーとガイガーカウンターが鳴り響いたので、さすがにこれは不覚で拙いと思ったとのことである。

   

  その後、核実験による放射性降下物(フォールアウト)の作物や水産物への影響を研究するために、東大農学部では水産学の檜山研究室がマグロへの放射性ストロンチュームやセシュームの生体濃縮汚染の研究をしており、三井研究室では汚染土壌からの放射性のセシュウムやストロンチウムやヨウ素を水稲やムギや野菜などの作物に吸収させないための土壌改良資材の研究を行っていた。

   

  1963年に小生がこの三井研究室に卒論生で入った頃には、放射能汚染の研究は少し下火になっていたが、それでも研究は続けられていた。こういう歴史的経過から、ラジオアイソトープの技法を用いた植物生化学研究では、この研究室は世界でも群を抜いた成果を挙げていた。

   

  1975年頃に2号館の総修繕の時期があった。その時に三井研究室の倉庫から,かつての先輩が実験したサンプルが出てきた。ビキニの水爆実験の時に日本の各地から集めた水稲の種子を大きな鋼鉄の鍋で燃焼して灰にして、放射能を測定した、その灰であった。ガイガーカウンターを当てたら、いきなり針が振り切れた。半減期の長いセシューム(Cs)とストロンチューム(Sr)のせいだと思われた。こんな危険な物を何故こんなところに置いているのだ? と先輩の技官に聞いたら、この灰の元であるイネの種子は、当時は汚染はされているとはいえ自然の産物だから、たとえフォールアウトを灰にして濃縮して放射線量が高くなったからといって、あえて鉛の格納庫に保管しなくても、違法にはならないのだ、ということであった。なるほど、法律とは面白いものだ。しかし危険には替わりはないので直ちに放射性同位元素実験施設に格納した。

    

  その後1986 4 26 日にチェルノイブイリ原発の炉心溶融事故があった。この事故の2日あと(か、2週間あとだったか忘れたが)に、小生は東大農学部の圃場で試しにガイガーカウンターをあちこちの植物や建物に向けてみた。驚いたことに芝生に近接して測ると明らかにバックグラウンドよりも高い50-200カウント以上の放射線が検出された。多くはヨード131と思われたが、念のために植物を粉砕して液体シンチレーションカウンターで感度良く測ると、2000カウント以上検出された。

    

  その年の暮れにフランスワインが日本には堂々と入ってきたが、赤ワインでは数千カウント、白ワインでは2千カウント前後のセシウムが含まれていた。翌年にイスラエルで開催された「国際植物と鉄栄養学会」で、キブツの野外での昼食時には、イスラエルワインがでた。「このワインにはきっと高い放射能のセシウムが含まれているに違いないぞ」と欧州の研究者達に報告すると、彼らはやけくそになって「放射能で胃を洗浄するんだ!」とわめいていた。ちょっと悪かったかな。

    
      
欧州の人たちは、その時の不安と騒ぎを、決して忘れていないはずである。彼らは日本に同情こそすれ、日本を非難することは決してできないはずである。
 
    

(森敏)

 

秘密

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