WINEPブログ
「飯舘村のカエルの放射能汚染」
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2011-02-08 19:09 |
カテゴリ:未分類
板垣退助(1837-1919)
立志社を作り自由民権運動を起こす。自由党の総理となり、
全国遊説中 明治15年岐阜で刺される。「
板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名。
晩年は社会事業に全力をあげる。
板垣退助と国技館に思う
今回の相撲界の八百長に関するテレビの番組があって、何気なく見ていたら板垣退助が相撲を芸人的な興行(こうぎょう)から格闘技(?)にしようとして、現在の国技館を建てたという。彼は相撲の八百長を忌み嫌ったとか。
司馬遼太郎の著作「功名が辻」や「夏草の賦」にある土佐の歴史から、土佐では相撲が非常に盛んであったことがわかる。山内一豊が、掛川60万石から土佐に赴任してきて、やったことが、「桂浜で相撲大会をやるから」ということで、地域からトーナメントで勝ち上がってきた青年団の相撲のエリートを、桂浜に集めて、彼らを一網打尽に銃で皆殺しにしたことであった。
かれら相撲エリートは新しく来た山内家の配下の上士ではなく下士であり、郷士(ごうし)、すなわち土佐の前の支配者であった長我部元親の時代では武士階級であった優秀な人材なので、その優秀な種(たね)を山内一豊が絶とうとしたのだ、と書かれてあったと思う。実に冷酷無比なことをしたもんだ。
土佐藩(高知県)出身の板垣退助は子どもの時は相撲が大好きなやんちゃ坊主であった。それが長じて維新の戊辰の役では会津征伐で武勲を上げる。(したがって東北人にとっては板垣退助は今でもゆるすべからざる仇敵であろう)
小生の父親も高知の青年団では相撲が強かったようである。長じて京都大学では相撲部で鍛えたといっていた。父が高知の病院で急性肺炎で死ぬときに、父親の脚を兄弟でさすったのだが、その相撲で鍛えて最後まで太かった股が、いまでもまぶたから離れない。
(森敏)
よく間違われますが…
『功名が辻』の中の「長曾我部旧臣の一領具足を相撲大会と見せかけて集め鉄砲で殺した」のエピソードは、司馬遼太郎氏のフィクションの部分で、史実ではありませんよ。小説から歴史ファンになった人は、こういう落とし穴があるので、ご注意。
2018-09-30 09:09 URL [ 編集 ]
moribin
> 『功名が辻』の中の「長曾我部旧臣の一領具足を相撲大会と見せかけて集め鉄砲で殺した」のエピソードは、司馬遼太郎氏のフィクションの部分で、史実ではありませんよ。小説から歴史ファンになった人は、こういう落とし穴があるので、ご注意。
そうでしたか。
御指摘ありがとうございます。
長宗我部の方の歴史もきちんと勉強すべきですね。
不勉強ですみません。(森敏)
そうでしたか。
御指摘ありがとうございます。
長宗我部の方の歴史もきちんと勉強すべきですね。
不勉強ですみません。(森敏)
2018-09-30 12:52 URL [ 編集 ]
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