WINEPブログ
居間からの南面の庭の眺め
上の写真の灯籠の拡大図。中心部の酸化鉄のケロイドは
戦災での焼け跡か? 12の干支(えと)が彫り込んである.
寺田寅彦邸跡に6基もの灯籠がある理由についての考察
35年ぶりに、高知の寺田寅彦邸跡を訪問した。ここは昔すんでいた我が家から東に直線距離で1キロもないのだが、小生が幼少の頃とて、付近に東大の物理学教授であり名随筆家の寺田寅彦が住んでいた家があるなどということは、全く知らなかった。親父も教えてくれなかった。
以前に小さな子ども達を連れて訪れた時には、ここには借家人が居たので、家の中を見せてもらえなかったし、庭も荒れていたように思う。実に粗末な扱いだった。しかし今回は、いまから30年前に高知市が寺田家の旧邸の建物の設計図を忠実に再現した「高知市保護施設 寺田寅彦邸跡と居室」という、すばらしい外観の屋敷になって居たので心底から驚いた。(ただし建物の位置は元の位置から少しずれているとのことである。) これは、文人墨客以外には、科学者の生家などがあまり重視されていない日本では驚嘆すべき扱いだと思った。
裏門から入っていくと、庭の草取りをされていた女性が、すぐに立ち上がって、家の中に案内してくれた。この人は、教育委員会を退職したあと20年間もこの寺田邸の管理と案内をされているということで、何を聞いても、「立て板に水」とはこのことかと思わせるぐらい、実に流ちょうに、往時の寺田寅彦の姿を見てきたような口上で彷彿とさせてくれるのだった。話し始めたら止まらない。 彼女は寺田寅彦の随筆のすべての章節を頭の中にたたき込んでいる様子であった。まさに生き字引である。
縁側から眺めると庭園は良く整備されていて、あちこちに以前には気が付かなかった立派な灯籠が少なくとも6基あった。落ち葉の季節なので、色が寂しくなりかけていたのだが、寺田寅彦の随筆に出てくるさまざまな木が植えられていた。
縁側のすぐ前の灯籠(写真参照)は周りに12の干支(えと)が彫り込んである、立派な物であったが、半焦げになっているのか、花崗岩が酸化鉄で褐色に錆びていた。戦災で焼けた焦げ跡だということであった。
太平洋戦争終戦直前には、高知の中心部のはりまや橋から西のこの寺田邸あたりまでは赤い炎が天を焦がすまで米軍のB-29による焼夷弾の猛攻撃で延焼した。小生は幼い頃の防空壕からの東の空の真っ赤な眺めを記憶している。
ところで、寅彦の父である利正は何故か灯籠が好きだったようである。400坪もの邸宅とはいえ、灯籠が6基とは尋常ではないだろう。その理由に関しては、説明員の女性も知らないようであった。そこで小生は翌日の「寺田寅彦記念室」を見学した後、その理由を考察してみた。
実は、次の日に高知城内にある高知県立文学館というところに出かけて、驚いた。そこには、なんと「寺田寅彦記念室」という200平方メートルぐらいの部屋があり、彼の業績ばかりでなく、生い立ちに関する資料が丁寧に展示されていた。寺田邸は木造で火事に遭って消失しかねないので、ここ高知県立文学館に殆どの寺田寅彦関連資料を保存しているのだそうである。その展示物の中に寺田寅彦の家系に関して以下の説明文があった。
寅彦の父利正の実家宇賀家の先祖は長宗我部氏の侍大将で、土佐藩では高岡郡大野見郷の郷士であった。文久元年(1861)3月4日の夜、土佐藩の上士が、下士に斬殺された「井口刃傷事件」が起こった。身分差別の厳しかった土佐で、上士対下士の対立を一気に表面化させ、一触即発の事態となった。結局下士側2名が切腹することになったが、その際宇賀喜久馬は兄利正の介錯で切腹した。この悲劇は利正の複雑な性格の原因となった。
と、意外な事実が記載されていた。この井口刃傷事件は今年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」でもチラリと取り上げられたと記憶している。寺田寅彦の父利正は下士であり、実弟の喜久馬の切腹を介錯した。この慚愧の念は利正の一生をつきまとって離れなかったであろう。思うに利正は、弟喜久馬の怨霊を弔って庭に沢山の灯籠を立てて、ろうそくを点灯して毎日の夜を過ごしたのではないだろうか。
寅彦の随筆の中に灯籠の由来のことが書いていたという記憶は小生にはない。
(森敏)
付記1: 昭和11年1月6日に谷中斎場で行われた寺田寅彦の葬儀の祭に、安倍能政氏が読んだ弔辞が寺田邸の室内での展示ショーケースに入れられていた。実に感涙あたわざる名文である。安倍能政氏は夏目漱石を介して寺田寅彦と交流をはじめたとのことである。
付記2:。高名な細菌学者である「北里柴三郎」の熊本県の生家への訪問記に関しては、以前にこのWINEPブログで紹介した。最近の「野口英雄」記念館はまだ訪れていないのだが。