2008-04-23 15:51 | カテゴリ:未分類

記憶の「上書き」について

 

  

知人の脳科学者の話では、人の記憶容量には限界があり、二十歳ぐらいまでは、あたらしい記憶領域にどんどん新しい情報を記入していくが、それ以上の年齢になると、記憶容量が飽和して、その後は記憶を「重ねがき」で補っていく、ということである。自分に引きつけて考えても、この考えは納得がいく。

  

我が輩は10歳台後半までは「博覧強記」であった。あまり法則性がなくても、あらゆる事項をどんどんと記憶できた。中学校の時は新聞部の部長をやっていたせいか、1時間ぐらいのインタビューや講演での話を一度聞くと、メモをとらなくても、それを直ちに話の順序に従って想起して、長い記事にするのが得意であった。イタリアの名指揮者であったトスカニーニが3歳の時に、数十分の交響曲のオーケストラの演奏指揮を見ていて、終わったとたんに、見事にそれを最初から最後まで再現して指揮して見せた、という話を聞いたことがある。そういう神童の逸話は実際にあり得ることで、あながち嘘ではないと思っている。

  

ところで、年をとってくると、だれでも正確かつ迅速な記憶の想起が難しくなっていく。60才をすぎた現在我が輩が一番自覚的な「ぼけ」の症状は、人の顔は思い出すがその人の名前をすぐには思い出せないことである。新しい学生の名はよほど個性が強くなければすぐに忘れてしまう。これは人名を書き込むべき記憶領域(容量は一万人ぐらいか?)に人名の「重ね書き」が繰り返されて、書き込んだ字が判別しにくくなったためだという知人の説明である。 

  

この点人間はどうであろうか?新しく情報が入ってきたときにいつも旧い情報は意識に留めているであろうか?あるいは潜在意識に沈殿させているであろうか?それでは困る記憶領域があるのではないだろうか?人は、「重ね書き」だけで、増大する記憶容量を保証できているのであろうか?

  

我々は毎日の生活でルーテイン(常套)な作業を繰り返している。起床、歯磨き、朝飯、トイレ、通勤、昼飯、晩飯、入浴、睡眠。われわれは、これらの本能的な作業をいちいち覚えているであろうか? たとえば「1昨日の昼飯は何を食べたか?」ということを、覚えている人がいったいどれぐらいの割合でいるであろうか? 何か食事に伴うイベント(誕生日に恋人と有名レストランで食事した、とか)がなければ食事の内容までは記憶していないのではなかろうか? 一般的にはこんなことはよほど食事に執着心がある人でなければ「忘れた方がいい」余分な情報であろう。実は「食事」という記憶領域の容量はあまり大きくはなくて、それは毎回無意識的に消去されて、いつも最新のものに書き替えられているのではないだろうか? これらの記憶は「重ね書き」ではなく、コンピューターの画面上で見るように正真正銘の「上書き」をされているのではないだろうか?

  

30年前に湯川博士が、晩年に「素領域理論」というのを提案したときに、「たとえ話」として、そのアイデアは、芭蕉の奥の細道の冒頭「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」から得られたものであると、新聞に報じられていた。“素領域”とは宿屋の空き部屋のようなものであって、そこにどんなお客さんが泊まっても、ただ通過する空白の領域であるという概念である。この理論は素粒子論の世界では残念ながら成功しなかったようであるが、ただ何となく、我が輩が大学生の頃であったがこの考えは魅力的だと思った記憶がある。

  

我々の記憶容量にはこの“素領域”のような記憶領域があるのではないだろうか。いつも意識しているととてもたまらないという領域があるのではないだろいうか? そこには情報が入っているが、同様な情報が来ると、すぐにそれに置き替わって先の情報は廃棄される(ところてん式に押し出される)、すなわち「上書き」される領域があるのではないか? その領域に入る情報のおよその型は決まっていて、抵抗なく入り後から来る類似の情報によって抵抗なく押し出されていく。情報はただ通過していく。

 

素人考えであるが、アルツハイマーはそのルーテインな用途に使ってきた記憶領域さえもが破壊されてしまった症状ではないだろうか? つまり、最初からルーテインな情報をさえ受け付けられなくなってしまった、すなわち5分前に食べた食事を憶えられない、ということではなかろうか。

 

(管窺)

 

 

 

 

 

秘密

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