2010-10-08 14:44 | カテゴリ:未分類

クロスカップリング法に思う

  

  以下、ノーベル化学賞の対象になった、「クロスカップリング法」について、個人的な思い出を記したい。

    

  1963年に農芸科学科に進学した小生にとって、有機化学の松井正直教授の授業は毎回が非常に新鮮であった。先生は教室に入るなり、何も言わずにいきなり、除虫菊の菊酸の有機合成工程やロテノンの有機合成工程を何十工程にわたって、何も見ずに延々と黒板の左から右へまた左から右へ、その反応時に使った反応触媒と出来た反応中間体の構造式とを一緒に、どんどん記述していくのであった。

    

  驚いて、学生はそれを一生懸命書き写していくのであるが、とてもその速さに追いつかない。先生は反応工程を全部書き終わると、「君たちなにしてるの?こんなの書き写しても仕方がないよ。僕の文献に全部載せているんだから」といって、さっと黒板拭きで、消すのであった。

    

  みんなあっけにとられるのだった。

    

  また、講義の最中には、講義のために有機化学の研究室員にあらかじめ合成させておいた結晶の入った三角フラスコをみせながら、「きれいだねー、ほれぼれするねー!」と感動して、それを学生に回覧させるのだった。本当に有機合成が面白い学問である、と思わせる迫力があった。

    

  松井先生の光学活性を維持したビタミンAの全合成法は画期的であり、住友化学が工場プラントを設置し、大量生産に成功し、実用化されたということを授業でも聞いていた。

    

  小生の遠い親類に住友化学の工場長がいたので、夏休みに帰郷して、こういうすばらしい先生がいる学科だ、ということを親父に食卓でしゃべると、「農芸化学科に行ってよかったね。学科に1人でも真から尊敬できる先生がいることは本当に幸せだよ」と言う反応が返ってきた。親父は、京都大学では青柳先生という後に学長になった電気が専門の先生に私淑してその研究室で卒論に打ち込んだということであった。

      

  3年生や4年生の農芸化学科では5月祭の時には、学生実験室を開放して、学生の研究成果の報告をするのだが、小生らのグループはN-serveという、  当時ダウケミカル社が出している、脱窒抑制剤(NH4+NO3など土壌への施肥窒素がN2Oなどによって気化しないようにする脱窒菌の代謝阻害剤)を全合成した成果を発表した。
  

  この合成には、松井先生の好意で有機化学研究室で3ヶ月ばかり有機合成の細かな手技を山内助手の指導を受けた。一方で、当時植物栄養・肥料学研究室に住友化学から博士論文の作成に派遣されていた研究生の上田実さんには有機合成のスキームの指導を受けた。つまり小生は3年生の時から両方の研究室に出入りしていたのであった。

     

  五月祭での研究発表の時には、日曜日であるにもかかわらず松井先生が直々に見学に来られて、ポスター発表と、合成された結晶N-serveを見ながら、いろいろ質問をされた。そして、「よくやったね、これだけの合成反応を経験したのなら、君は4年の有機合成の学生実験を免除しても良いくらいだね」とほめてくれた。

     

  というわけで、その後も時々有機化学研究室に出入りしていたのだが、ある時助教授の某先生に「森君、君がこの研究室に来て修士課程に進学しても、修士の資格を得るには400の有機合成反応を憶えなくちゃいけないよ。」と、宣告された。それは、やんわりとした、拒否の意思表示だった。

     

  当時は自分でも、有機合成ってどうしてこんなに、いくつもの工程を経なければ最終産物に到達できないんだろう(当時森謙治助手の世界初のジベレリンの全合成成功には30工程ぐらい要していたと思う)という根底的な疑問はあった。合成工程の収率を上げることが合成屋さんの腕の見せ所のように思えた。新しい有機合成反応を研究することが如何に重要であるか、というサイエンスとしての有機化学のオリジナリテイに関しては理解が至らなかった。今から考えると有機合成とは、既知の反応を如何に巧妙に組み合わせて、誰よりも速く最終産物を得るかの学問だ、としか考えが及ばなかったように思う。

      

  そういうこともあって、卒論は放射性同位元素を扱って最新の研究成果を出しておられた、もう一方に出入りしていた、三井進午教授の植物栄養・肥料学研究室を選択し、さまざまな紆余曲折があったがそのまま植物栄養学の分野で定年まで過ごした。

      

  小生の定年数年前に、有機化学教室では森謙治助手が助教授・教授と昇進し、定年になられた。その、退官講義で、35年ぶりに有機合成化学の実に迫力あるお話を詳しく聞くことになった。不勉強な小生が知らないうちに有機合成化学の方法の飛躍的進歩に真に驚いたのであった。すなわち今思えば、1980年以降の森謙治先生の有機合成は、今回のノーベル化学賞の対象である、クロスカップリング法が随所に使われているのであった。

      

  世界中の誰かが何らかのアッセイ法で天然の有機化合物を単離して構造決定すると、有機合成化学者は、すぐにその天然物の全有機合成に取りかかる。このときの競争が激しいようである。まさに先駆性(priority)争いである。その時にまず使う手法は、簡単に要約していうと、①有機化合物を既知の化合物に適当ないくつかのC-C結合の部分で切断していくつかのパーツに切り分けるという思考実験を繰り返す。②そのパーツ化合物にそれぞれに適当な反応基をつけて、③それらのパーツを、件(くだん)の「クロスカップリング法」でがちゃがちゃとくっつける。④反応基をのぞく、⑤目的の化合物のできあがり。というようにデザインするらしいのである。
  

  まさにノーベル化学賞受賞者の根岸英一先生がいうように、有機合成化学は
設計どおりにブロックを組み合わせていくようなもの」となっていったのである。

        

  今回のテレビのノーベル化学賞報道の解説では、C-C結合以外にC-N結合やC-S結合などに関して、それを効率よく行う新しいクロスカップリング法が現在進行形で開発競争が進められているということである。

        

  今なら、最初に修士課程修了までに400もの合成反応を憶えなくても、学部の学生でも有機合成化学に入って行きやすいと思う。それだけにこの分野でのプロの研究者としての競争は一層激しくなっているのだろうが。

               

(森敏)

 

 

秘密

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