2010-08-24 15:04 | カテゴリ:未分類

「私の履歴書」 下村脩(しもむらおさむ) を読む

   

日経新聞に7月1日から31日まで毎日連載された、ノーベル化学賞受賞者である下村脩氏の自叙伝を、かためて読んだ。知人がわざわざ切り取って送ってくれたのである。

   

この文章は、随所にどの研究者にとっても、直面したことがあるような「難問を如何に解決したか」、が書かれており、非常に研究上の示唆に富んでいる。

  

オワンクラゲ(学名イクオリア)の青色発光源であるイクオリンタンパクの発光がpH4以下で無くなることや、発光に必要な成分がカルシウムであることの発見など、このイクオリンタンパク精製の契機をつかんだ以下の記述が圧巻である。

   

研究に行き詰まり、一週間ぐらい経ったある日の午後、ボートの上で一案がひらめいた。ごく単純な考えだった。生物の発光には多分、蛋白質が関係している。そうであれば発光は酸性度、すなわちpH(水素イオン指数)によって変わるであろうーーーー。

何故そんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。すぐに研究室に戻り、種々の酸性度の溶液を作り、クラゲから切り取った光る部分(リング)を抽出してみた。

抽出液はpH7で光り、pH6でも光り、pH5でも光った。しかし、より酸性度が高いpH4では光らなかった。

そこで、リングをpH4で抽出してろ過したところ、予想どうり全く光らなくなった。ところがそれを重曹で中和したら、また光り始めた。私はついに抽出法を発見したと思った。

ところが次の瞬間、本当に驚いたことが起きた。実験に使ったpH4の抽出液を流しに捨てたところ、流しの内側が、ぱあっと青く光った。部屋全体が明るくなったと感じたほどの輝きだった。流しには海水が入り込んでいたので海水が発光を引き起こしたに違いない。海水の成分は分かっており、発光を引き起こした原因がカルシュムイオンであることを知るのにそう時間はかからなかった。・・・・カルシウムが発光を引き起こすことが分かったので、カルシウムと結びついて働きを無効にする薬品を使い、発光物質を抽出することにした。
  

        

小生はこの文章を読みながら、二つの体験を思い出した。

         

その一つは、詳細は省くが、1990年前後に東大植物栄養肥料学研究室での博士課程の大学院生であった生嶋伸介君(現住友化学在籍)は、鉄欠乏のオオムギ根先端を集めて、そこからニコチアナミン合成酵素の精製を行っていたが、酵素活性の検出に不安定さがあり、その原因をつかみかねていた。10回繰り返して5回活性が検出される、などということがあって、再現性が得られなかった。これは酵素活性の阻害物が混入しているためなのか、何が原因なのか理由が分からず絶望的であった。ところがあるとき、Tris緩衝液でpH中性付近(7.2)ではなく、アルカリ領域での緩衝液であるCapsでpH9.0付近で活性を測定してみると、きちんと酵素活性に再現性が得られることに気が付いた。酵素の精製法は間違っていなかったのである。つまり、ニコチアナミン合成酵素活性の至適pHが8.5であり、その前後へのわずかのpHの変化で急速に酵素活性が低下することの発見までになんと、丸2年が費やされたのであった。このニコチアナミン合成酵素遺伝子はその10年後の1999年に国税庁を退職してポウドクとして帰ってきた樋口恭子さん(現東京農大准教授)によって、クローニングされたのであった。この一連の研究の決定打は下村脩氏と同様pHなのであった。

    

下村氏の話でもう一つ思い出したことは、「実験に使ったサンプルを流しに捨てるときは、充分に気をつけて!」と言う、小生が農芸科学科の3年生の時の「発酵学」の授業での有馬啓教授の教訓である。

その授業で有馬先生は、先生が若いときに紫外線照射によってペニシリン生産菌(放線菌)に突然変異をおこさせて菌の力価(りきか:例えば単位菌数当たりの溶菌力)を驚異的に上げることに成功したのだが、それが全くの偶然であったことを語ったのである。つまり、紫外線照射で突然変異をおこさせた放線菌をシャーレの寒天培地に播いて、生えてきた種々のコロニー(菌群)から菌をサンプリングしてカップ法という方法で大腸菌を殺す溶菌力でペニシリンの生産能をアッセイするのである。先生は、一通りのアッセイ実験が終わって、シャーレを室温で放置していた。そして何日かして、シャーレから寒天をはがして流しで捨てようとしたら、通常のペニシリン生産放線菌は緑色であるが、あるシャーレにこれまで見知らぬ黄色のコロニーが新しく出現していた。そこで、これは何だろうと思って、このコロニーの菌の溶菌力活性を測ったら、この菌は従来の数千倍の力価を示したということであった。この発見が人工的な変異によって抗生物質の生産能を上げることが出来るということの世界で最初の発見であった、という話であった。話の詳細がすでに記憶としてうろ覚えになっているので、正確ではないかも知れないが、「サンプルを流しに捨てる時は気をつけよ!」という先生の教訓だけは正確な記憶だと思う。下村氏の場合は、流しに捨てたときに青色の蛍光が発生したことを、見逃さなかったわけである。

 

この様な例は、有機合成化学者の間では良く経験することのようである。有機合成に失敗したと思って、反応物を3角フラスコに入れて冷蔵庫に保存していて、何十日の後に冷蔵庫を掃除しようとして再度よくみたら、見慣れぬ結晶が出来ていた。それを解析したら、新しい化合物であった、というような話である。だから、実験科学者は、自分のサンプルを捨てるときには、充分サンプルの変化の観察を怠るなということなのである。

    
最後に下村氏の格言を記しておきたい。
    
あらかじめ予定されている成功などはないのだ
     

(森敏)
  
付記:「ニコチアナミン」という化合物は、鉄欠乏のオオムギの根から根圏に分泌される「ムギネ酸」が、大麦の根で生合成されるときの前駆体です。3分子のSAM(:S-adenosylmethionine)がニコチアナミン合成酵素によって重合して、1分子のニコチアナミンが合成されます。ムギネ酸は三価鉄イオンを結合する錯体(キレーター)です。

 

秘密

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