2010-01-21 12:00 | カテゴリ:未分類

「説明責任」という言葉の由来について

           

  現状ではマスコミによる「説明責任」という言葉が過剰に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していると思う。税金を使っていない、個人の「秘守義務」にまで検察権力やマスコミが過剰に「説明責任」を要求する権利などは無いはずである。

     

  実は、小生が8年前に定年前に東京大学から大学評価・学位授与機構に兼職したときに、まず驚いたことは、今流行(はやり)の「説明責任」という言葉がこの大学評価・学位授与機構という組織のなかで金科玉条のように跳梁していたことである。最初は何のことかさっぱりこの言葉の定義がわから無かった。

    

  「説明責任」という言葉の意味は英語のaccountability(アカウンタビリテイ)という単語を翻訳したものである。すなわちこの言葉は、歴史的には大学評価からきたものである。外来語を生硬に翻訳したものなので、小生には大学評価以外の分野では未だその言葉の意味が良くこなれていないと思われる。

   

  大学の「説明責任」というのは <大学は社会に対して大学の設置目的や管理運営や、財務や、教育や、研究や、組織としての改善の試みなどに対して、定められた評価基準を満たしているかどうかを、きちんと国民に対して情報を開示して説明しなければならない> という意味なのである。

    

  現在ではそのことを実行できているかどうかをまず大学が自己評価して、一定の期間ごとに、国立大学法人法にもとづく国立大学法人評価や、学校教育法にもとづく認証評価などの評価を大学側は受けているのである。

   

  確かにそれまでの日本の大学は、<入学した受験生の偏差値>や卒業生の<就職率>ぐらいが、世間での大学の評価基準であった。父兄や受験生も大学で具体的にどういう教育や研究がなされているか、そのプロセスにはほとんど関心がなかったと言って良い。これが日本の大学の特に教育の「質」をレベルダウンさせてきたのである。

   

  小・中・高の先生たちが教職課程で義務として習う、教育哲学や教育心理や教育行政や教育技術などを、大学の教員達はきちんと受けていない。かれらは、ただ研究業績があるということだけで大学教員になっている。教育能力に対してはあまり厳しく評価されてこなかった。

  

  したがって、日本の大学教員たちは学生の学力の向上に対する興味が低く、教員になってからも教員自身が組織的な教育技術の向上のための訓練(Facutly Development)を受けていなかったのである。

   

  しかし、上記の大学評価が法律で義務つけられてから、この、教員のFD活動に関しては、かなり大学側も真剣に取り組むようになり、教育に対する教員の意識は現在向上してきている。

   

  そして大学の自己評価書には、これらの一連の活動が記載されて、その内容が大学のホームページで開示されている。つまり現在では、ほとんどの大学は形式的には「説明責任」を果たしている。

   

  この「説明責任」が法律によって要求されているのは、国・公・私立大学が、国や県の税金を使っており、学生から授業料を納入してもらっているから、彼らに対して、きちんと正確な情報を開示しなければならないということなのである。

       

     

                              

(森敏)

秘密

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