2009-05-21 11:23 | カテゴリ:未分類

何時まで続くのだろうか、大江健三郎の難解文は?

 

 

朝日新聞文芸欄(5月19日)で 

 

定義集 大江健三郎 

『知的で静かな悲しみの表現』 異化された未知の側面

 

という、一見して意味不明のタイトルに惹かれて、文章を読み始めた。

  

どうやら国立東京博物館『國宝 阿修羅展』を見に行っての回想文らしい。相変わらず難解この上ない文章である。例えば、この雑文の最後の以下の文を、一回読んで、すっと理解できる人は極めてまれであろう。彼は一体誰に向かって発信しているのであろうか? 難解と感じるのは小生の感性が鈍磨しているからなのだろうが、しかし、何故もう少し誰でもがわかりやすい表現が出来ないのだろうか? あいかわらず高踏的・衒学的(ペダンテイック)と言われても仕方がないのではないか? 

 

 

 

・・・・・ 阿修羅像をめぐる30分間ほどで教育された私は、自由に動いたり立ちどまったりできる十大弟子像のコーナーに戻りました。そしてさきに写真の記憶の強さにみちびかれて、すぐに見たものを前に、時を過ごして来ました。細身の立ち姿をまのあたりにして、着衣や袈裟の形の、それこそ相互の「異化」に引きこまれるうち、私は若い自分が、これら青年、壮年、老年の僧の、知的で静かな悲しみの表情にいかに圧倒されたかを思いだしました。

 釈迦の十代弟子にとはいわないが、その彫刻を作るためのモデルになった、1300年前の人々の表情に、自分らの時代の、この国の人間は、及びもつかないのではないか、という青臭いペシミズムをかきたてられるようでもあったのです。

 ところが現在の私は、その群像をめぐっているうち、いや自分はあれから、このような知的で静かな面立ちの人たちに実際に幾人にもお会いできた、そしてそれらの人たちは、こぞって老年の悲しみも示していられた、という遙かなような思いに襲われていたのでした。

  

 

余計な心配かも知れないが、こんな持って回った文章が国語の入試問題に出て、いろいろ設問されたら、受験生は混乱するだろうなー!と思ったことである。

 

(森敏)

  

付記:分野が違うから、ピントが狂った批判といわれるのは重々承知であるが、この大江健三郎の文章は科学論文としては悪文の見本みたいな文章である。

 

 

秘密

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