2009-03-08 17:27 | カテゴリ:未分類

「国立大学の構造改革の方針」以降 本間政雄 学士会会報 No.875

  

国立大学法人評価の結果がまもなく報告されるだろうが、それが報告される前に、本間政雄氏から学士会報に、国立大学の現状に関しての評価結果の結論めいた内容が報告されている。これは、少し勇み足のような感もあるのだが、最近の大学評価・学位授与機構から公表された、いくつかの国立大学が受けた機関別認証評価の結果も下敷きにしているものと考えられる。

  

以下の様にまとめられている。

  

・・・・ (略)

 これらを踏まえて、「構造改革の方針」とりわけ法人化の狙い・目的に即して国立大学に起きている変化を要約すると概ね次のようになろう。

(1)  国立大学の統合に関しては、現在までに十二大学が近隣の有力大学に統合されたが、統合による新たな教学組織の新設、学際的研究の進展、事務組織の集中・合理化などが見られるものの、統合による効果の検証は部分的にしか行われず、また少子化による教員養成大学の府県を超えた統合は地方自治体の反対により頓挫して、中途半端なまま推移している。小泉総理が去った今、文科省もこれ以上の統合には消極的であり、各国立大学も、統合より教員の教育力強化(FD)や学生交流などの機能的連携を模索している。

(2)  競争的資金の大幅な増額が行われる一方、人件費や物件費、教員研究費などの経常経費は削減され、経常経費の比率のもともと高い教員養成大学や文系単科大学は経営難に陥りつつある。COEの巨額の補助金は、旧帝大など一部の国立大学に集中投下され、こうした大学は教員数もずば抜けて多く、高い研究力をもつので、企業からの研究費や寄付金も多く集まるので、それ以外の大学との格差がどんどん開いている。

(3)  法人化により、学長に強い権限が与えられ、リーダーシップを発揮して限られた資源の選択と集中による「戦略的な」大学経営を行うことが期待されているものの、多くの学長は教授会の抵抗を前に困難な決定を先延ばしにし、「調整型」「一律削減型」の意思決定から脱却できず、結果的に大学が全体的に衰えていくジリ貧の状態に陥りつつある。

(4)  国立大学の大学運営に当たって、資源の「選択と集中」を求める文科省自身が、各国立大学の「条件」と「体力」を考慮しない運営費交付金の「一律削減」を続けているため、旧帝大などに比べると地方の中小国立大学、文系単科大学、教員養成大学などが疲弊し、これらの大学に「不公平だ」という不満と閉塞感が広がっている。

(5)  法律により大学運営の要のポストに外部人材の登用を義務付けたものの、学外者の「干渉」を嫌って、例えば経営に関する重要事項の審議機関である「経営協議会」の運営を形骸化したり、経営に参画する理事や教育研究を含めた業務監査を行う監事を非常勤ポストにしたりして、制度の骨抜きを図る例も少なくない。ただ、それまでの国立大学は、一部の例外(「実験大学」としての筑波大学の「参与会」や、法人化以前に導入された「運営審議会」)を除き、外部の人間を排除して、教員だけで外部からは全くうかがい知れない運営を行っていたのは比べれば、運営プロセスはかなりの程度透明化され、外部の意見を少しずつ取り入れるようになっている。

(6)  法人化により、自主性、自律性原則に基づく効率的で効果的な大学運営が理論的には可能になったが、多くの国立大学は、文科省に対する甘えと依存体質から抜けきれていない。教職員の意識改革もあまり進んでおらず、危機感も乏しい。逆に、法人化により広範な自由裁量権を手にしたというが、資金運用や資産の活用は制限され、出資会社の設立は認められず、中期計画に基づく実績評価が毎年行われ、監事監査・会計検査院による監査・外部会計監査人監査という「三様監査」が行われるというように規制が強化された面もある。国立大学側には、「両手両足を縛られて自由に走れと言われているようなものだ」と不満の声が強い。

(7)  国立大学に限らず、人材養成と学術研究の拠点としての大学に対する期待はかつてないほどに高まる一方、巨額の税投入を行っている大学に対する説明責任を問う声が強くなっている。十八歳人口の過半数が大学に進学する状況の下で、大学生の基礎学力や教養が大幅に低下しているのに、「知の爆発的拡大」と言われるほど学問の進展は急激かつ広範であり、教育プログラムの内容の見直し・再構築が不可欠である。にもかかわらず、研究偏重・教育軽視という大学教員の体質は容易にも変わらず、強い権限を持つはずの国立大学トップも教授会の反発を恐れて、ほとんどの場合、抜本的な教育改革にはなかなか手をつけることができないでいる。

(8)  第三者評価の導入や競争原理の強化が謳われたものの、七年に一度の「認証評価」、中期計画に対する実績評価(国立大学法人評価。各年度及び六年に一度)は、経営改革や教学改革の進展に一定の効果が見られるものの、形式的な評価に留まっている面もある。

 

 国立大学は、○九年度に法人化六年目を迎え、一○年度以降の六年間の第二期中期計画の最終準備に入る。また、第一期中期計画期間の実績評価も最終段階を迎え、評価結果によって第二期の運営費交付金の額も増減される。国立大学の関係者からは、OECD加盟諸国と比べて半分以下の水準にある高等教育に対する公的投資額の増額を求める声が上がっているが、厳しい国家財政の下、国立大学に対する運営費交付金の増額は望むべくもない。高等教育のユニバーサル化、私立大学の充実、高等教育に対する期待の高度化などの変化を踏まえて、国立大学の果たすべき役割を改めて再規定し、例えば社会科学系の学部教育や、いわゆるゼロ免課程(教育職員免許の取得を卒業要件としない教員養成系教育学部)、教養部の廃止に伴って教員救済のために設置した「国際」「総合」「文化」「人間」などを冠した学部・大学院、付属学校などを縮小、廃止の方向で検討する一方、採算が取れなくても地方の活性化に大きな役割を果たす地方国立大学への重点的予算配分などの政策を大胆に構想、実施する時期に来ていると思う。(立命館副総長・立命館大学教授・名大・法・昭46

  

文中小生が下線を引いた部分に関しては、小生には異論があるのだが、それ以外はおおむね正しいことを言っているように思う。問題は、評価の結果浮かび上がってきた様々な具体的な問題点に対して、文部科学省自身が今後どのような大学行政を行うかであろう。

 

オバマ大統領は未来志向の科学技術政策の一環として、向こう5年間のうちに国民の大学進学率を20%に引き上げると言っている。それを実現するためには多額の施設・設備・教員増等のための予算を投入するだろう。それもアメリカの景気振興策の重要な一環と考えているようである。

 

日本では、高等教育を充実させるために巨額の投資をすることが、GNPを上げる未来の有効な投資になるという風な主張が、なぜなされないのだろうか? 実に不思議である。この暴風が吹き荒れる経済状況を逆手にとって、「大学への人材育成投資こそがもっとも効率の良い未来志向の経済投資である」と呼びかける絶好のチャンスととらえるべきではないだろうか。

小生はたびたびこのWINEPブログで述べているのだが、首を切られた派遣労働者の中には、多くの<ポスドク崩れ>がいるものと思われる。彼らに教育研究の定職を与えることは、焦眉の課題でもあるだろう。

 

  文部官僚出身の本間氏自身が、下線を引いたように <厳しい国家財政の下、国立大学に対する運営費交付金の増額は望むべくもない。> と極めて抑制的である。なんと文部科学省に対して謙虚で忠実なんだろうかといつも思ってしまう。

    

(森敏)

秘密

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