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2023-09-01 21:44 | カテゴリ:未分類
今朝の朝ドラ「らんまん」にでてきた平瀬作五郎と池野成一郎は、前者が公孫樹(イチョウ)の精蟲を発見し、後者が蘇鉄(そてつ)の精蟲を発見している。その功績で以下に述べるようにこの二人は、明治44年5月12日第2回学士院賞恩賜賞を同時受賞している
 
この文章を読めば、当時西欧に追いつけ、という明治政府の国威発揚に、図らずもいかに両者が貢献したが、読みとれる。この審査書をだれが書いたかわからないが、文面からすると当時の東大植物学教室の教授であった松村任三であったと思われる。
世界に冠たる研究成果としてよほどうれしかったのだろうことが、躍動した文面からうかがわれる。
朝ドラ「らんまん」では、二人の発見者を前に松村教授が歓喜の涙を流して喜ぶ姿が演じられている。

原文は擬古文調の縦書きのカタカナ文字なので、読みやすいように、横書きに手打ちで変換しました。ちょっと苦労しましたね。


平瀬作五郎君及理学博士池野成一郎君授賞に関する審査要旨


一、 平瀬作五郎君は圖書を専攻せる者なるが、明治21年理科大学雇となり、植物に関する圖書を製作して教授を助くる余暇を以て、植物の解剖実験に就て十分その素地を養ふところあり、明治26年7月公孫樹(イチャウ)の胎生に就て実験に着手せり。その研究の動機を考ふるに、鷗州植物学大家2,3の実験説に「10月に至り成熟して落ちたる銀杏を験したるに、胚の形跡をも認めず、意らくこれ受胎せざりしものなるべしと。然るに両3月を経て貯蔵せしものを再検すれば、ことごとく生育せる胚を収めたり」とあり。又「秋期におよび母樹を辞して後受胎し、その冬期中に胚発育す。」とあるに疑問を起せるに因れるが如し。是に於いてか着々研究に歩を進め、明治27年発行の植物学雑誌に於て、
   Notes on the Atlraction-spheres in the Pollen-cells of Gonkgo biloba.
と云ふ論文を掲載して、公孫樹の雄花なる花粉細胞内に異状あることを6月発行の同雑誌に於て
  Ètudes sur le Ginkgo biloba.
と題する豫報を掲げ、次いで理科大学紀要8巻(P.307-321)に
  Ètudes sur la fécundation et I’embryogénie du Ginkgo biloba.
と題せる詳論を載せて、公孫樹に於ける雌花の卵球に変動あることを報せしが、ついに其研究愈々(いよいよ)精密に亘るの結果、翌明治29年4月開会の植物学会総会において、公孫樹の花粉より2個の精蟲を発生せる事実を発表し、同年10月発行の植物学会誌に「公孫樹の精蟲について」と掲げて、その精蟲の形状は卵円形にして、長さ82ミクロン、幅49ミクロンあり。頭部渦線状を成して茲(ここ)に繊毛を列生し、花粉管の一端より飛び出して、胚珠心の内面に留まれる液汁内を、自転しながら迅速に遊走せる状を目撃せることを論ぜり。その独乙文は1897年発行の
  Botanishes Centralblatt (P.33-35)に在り。題して
  Untersuchungen ueber das Verhalten des Pollens von Ginkgo biloba.
と云ふ。又その詳論は1898年出版の理科大学紀要(P.103-149)に登載せり。題して
   Etudes sur la Fécondation et l’Embrvogénie du Ginkgo biloba.
と云う。
そもそも公孫樹は日本及支那の特有産にして、その祖先は遠く地層の石炭紀及べる太古の遺物なるが如し。今その植物学史を案ずるに、199年前、ドイツ人ケンプフェル氏によりてGinkgoと命名せられ、その日本産なることを初めて紹介せられて以来、1836年頃よりその植物界は榧科と確定し、その後1880年ごろは狭義榧科なれども広義には之を松柏科に編入せられしが、平瀬作五郎君が研究の結果以来松柏科は勿論榧科より分離して特に植物界に新設する変更を来すの止むなきに至れり。
蓋(けだ)し植物の精蟲たるや、1822年以来苔類、藻類、その他花を有せざる隠花植物と称する下等の植物に於て之が発見ありしも、最初は単に動物の「インフーゾリア」なりとの見解にのみとまりしが、漸次学術の進歩するに従ひ、1851年ごろに至りては、下等植物は動物と等しく精蟲を具有して生殖作用を営むものなりとの確定説に到着せりと云えども、公孫樹如く、天に聳ゆる松柏科所属の顕花植物類に、精蟲の存在せんとは夢にも之を知らざる所なりき。然れどもドイツの植物学大家ホーフマイステル、プリングスハイム両氏のごときは、すでに50年前諸種の植物に於ける生殖器官の比較研究によりて、松柏類にも隠花植物に等しき生殖作用のあるならんとの推測をなしたれども、これは単に比較上よりの推測仮定止まりて、いまだ実際に之が証明を成したるものにあらず。又近代の大家ストラスブルガー氏のごときは大に進歩せる説を持して、公孫樹ついて精査せるところありしも、このごとき顕著なる精蟲発生の事項に至りては之を洩らせり。
夫れ平瀬作五郎君は未だ欧米の学府に出入りしたることなき一個の図画家にして、我が大学の実験室に於いて他の指導をも仰がず、僅かに職務の余暇を利用して此のごとき研究に従事して、欧米の大家が未だ曾て収めざる効果を得たるは、主として其顕微鏡視察上、手術の巧妙なると、精力絶倫なるとに由れるのみならず、刻苦精励4年の星霜孜々(しし)として一問題の研究を継続したるに因るものなり。
斯くて公孫樹精蟲の発見有りて以来、欧米の学会に於いては、平瀬作五郎君の名噴噴として喧伝せられ、1903年以降の植物学教科中公孫樹に関する生殖事項は、同人の名を挙げて其の図を採用せざるは無きなり。且つこの発見はただに精蟲の発見として、学術界の耳目を()動せしのみにとどまらず、之に因て植物の分類学、形態学及生理学上の不備を完うしたるところ少なからざる大に我国の以て誇りとするところなり。

二、 農科大学教授理学博士池野成一郎君は明治28年公孫樹の近類たる蘇鉄の生殖機関の発育及び其結実作用の研究に従事し、精密なる観察を遂行して、公孫樹と等しく蘇鉄の雄花に、精蟲を発生せる事実を発見せり。その研究の状況及び結果は当時内外の諸雑誌に登載セリといえども、精蟲発見の公表は明治29年11月発刊の植物学雑誌にして、是実に平瀬作五郎君が公孫樹の精蟲発見の発表後一か月にあり。「蘇鉄の精蟲」と題せる報文の予報是なり。是より先10月発刊の同雑誌に、
  Note préliminarie sur la Formation de la Cellule de canal chez le Cycas revoluta.
と題せる論文の掲載有りて、蘇鉄の雌花における研究を報道せり。ついで1896年発刊の
   Botanishes Centralblattに於ては、
   Vorläufige mittheilung ueber die Canalzellbildung bei Cycas reevoeuta.
と題する論文、1897年発刊の同雑誌に於ては、
   Vorläufige Mittheilung ueber die Spermatozoiden bei Cycas revoluta.
1898年発刊のBotanische Zeitung に於ては、
   Zur Kenntniss des sog. Centrosomäbnlichen körpers in Pollenschlauch bei Cycadeen.
と題する論文などを登せ、また同年発刊のJahrbucher fur Wissenshaftliche Botanik と同年発刊の理科大学紀要第12巻とに於ては、
   Untersuchungen ueber die Entwicklung der Geschlechtsorgane und den Vorgang der Befruchtung bei Cycas revoluta.
と題せる詳論を掲げて、蘇鉄に関する生殖全般の研究を完うせり。
抑も、蘇鉄は一種異様の植物にして、公孫樹と異なり其種類も多く、熱帯亜細亜、ポリネシヤ、豪州などに産するものなるが、幸に本邦温暖の地に之を産し、200年以前には、日本棕櫚の名を以て欧州人に知られ、150年前既に英国に輸入されたり。この類も化石の研究によれば、その祖先は遠く「ペリミアン」の地層に遡りて起れるが如し。
元来蘇鉄の種類たるや公孫樹に近似すと云ふといえども、同科の植物にはあらずして、唯広義において公孫樹と同じく裸子類に属するのみ。されば公孫樹の精蟲と同じく、池野成一郎君のこれが発見あらざりし以前は、世人は夢にもその事実を知らざりしなり。蘇鉄は東京のごとき寒地においてはまれに花を着くることあれども、その結実に至るまでの材料を得んこと不可能なれば、発見者は鹿児島に於いてこれが材料を収集して、その研究を遂行せり。是より先蘇鉄科の或る種類について、その生殖器官の発育に関するその精密なる研究は、1877年と1879年とに於いて、ワーミング氏、1882年と1888年とに於いて、トロイブ氏等の諸大家によりて、吾人の知識を増進せるところ多しとするにもかかわらず、諸氏の研究中には精蟲発生の事実を洩らして、後進なる池野成一郎君の研究によって精蟲の発生を確実に証明し、尚進みて其精蟲が卵内に侵入して其核と融合するの事実を開明するに至りしは、我が国の誇りとするところならざるべからず。

以上二人者の精蟲発見に関する研究は、各々特別の業にして、毫も他の助力を借れるものにあらず。その材料たる公孫樹と蘇鉄とは、我が国の固有産にして、鷗州に在りては蘇鉄のごときは温室内に培養するにあらざれば、その生育すら容易ならず、公孫樹のごときは戸外に栽培すべしといえども、結実完からざる不便あるより、二人者共にその材料の豊富なる本邦において、これが研究に従事したるは、その着眼宜しきをえたるものというべく、為に学術上この偉大なる貢献を成したるなり。
茲に米国において「ザミヤ」と称する一種の蘇鉄科植物を産するを以てウエッバーという人其生殖器官の研究に従事せしが,池野成一郎君の研究に遅るること一年にして、その精蟲の発見を公表せるは、奇と云ふべし。植物学勃興の当時、各自の着眼するところ同一の方針なりしにや、前後3年の間に、恰も言い合わせたらんごとく、三種の裸子植物より精蟲の発見を促せしものなるべし。この三幅対中、その二者は本邦人にして、発見は恰も姉妹の関係ありて其の功その労は互いに兄たり難く、弟たり難きものあり。
今日わが植物学会において、苟(いやしく)も一事を研究するごとに、多少の新事実を発見し、乃至は先輩の研究中に、誤謬を指摘して、これは修正を試むるなどのごときは、比比として有之といえども、この二人者のごとく、顕花植物中に精蟲の発見ありしは、植物学史上一新紀元を劃せるものというべく、1903年以降の植物学教科中いやしくも、公孫樹と蘇鉄と相遠からざる植物科名のもとに、平瀬、池野好一対の日本人名を掲ぐるに至れり。


追記:1962年に小生が農芸化学科に進学したときに、進学生歓迎コンパを教官たちが東大の小石川植物園で開いてくれた。その時に植物園の技官の方だったと思うが、園内に入って左手にある高木のイチョウを指さして。「これが平野作五郎さんが公孫樹の精蟲を発見した公孫樹です」と紹介されたことを今でもおぼろげに覚えている。久しく小石川植物園には出かけないが、公孫樹の前には、その由緒が書かれた立札があるはずである。

ネットで見ると、鹿児島の公園の案内の動画で「池野成一郎先生はわざわざ苦労して東京大学から出かけてこられて、この蘇鉄から精蟲を発見されました」というのが出ている。
秘密

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