WINEPブログ
「飯舘村のカエルの放射能汚染」
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2023-07-31 14:01 |
カテゴリ:未分類
本日の朝ドラ「らんまん」で万太郎(牧野富太郎)が植物学教室の田辺(矢田部良吉教授)に激怒され「研究室への出入りを禁止する!」という場面が出てきた。万太郎がアカデミズムの流儀をわきまえない振舞をしたことに対する最後通牒的なお仕置きである。
田辺は海外留学の後に初代植物学教室教授として、海外から万巻の専門書を購入整備してきたし、国内の植物の押し葉標本も着々と自分で採取して蓄積してきた、授業も担当し後輩を育ててきた。東京大学の職員でもなく、東京大学の学生でもない万太郎に対してその植物愛に心からほだされて、自分の研究室への自由な出入りを許してきた、という自負があった。だから万太郎がいくら植物学雑誌を自費出版するからといって、論文の共著者に田辺の名を掲載していない、謝辞も載せていないことに、心底カチンと来たのである。論文は研究者の命だからである。朝ドラ「らんまん」では、田辺は万太郎に向かってみんなの前で『お前は研究室に土足で入ってきた泥棒』とまで切れまくっている。
ところで、ここのところは牧野富太郎自叙伝(講談社学術文庫)には以下のように記されている。
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図篇第六集が出版されたのが、明治23年であったが、この年私には、思いもよらぬことが起こった。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣言して言うには、「自分もお前とは別に、日本植物誌を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せることは断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封じるようなことをしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に植物の本や標本を見せぬということは撤回してくれ。また先輩は後進を引き立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上がるまでは、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室に来てはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生でもないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。
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これは牧野富太郎による一方的記述であるから100%正確かどうかわからない。この案件を矢田部教授自身がどこかで記している形跡がないからである。とにかく、この後世に残るべき「自叙伝」では、牧野は自分が悪かったと一言も釈明していないのである。
矢田部教授から見ると、当時の研究者としての未熟な牧野富太郎は「自意識過剰で、高慢で、恩義を知らない、恩を仇で返す輩(やから)」のそしりを免れなかっただろうと思われる。
先にこのWINEPブログでも紹介した大場秀章氏や小説家大原冨枝氏等の説では、牧野富太郎が教室の書籍や標本を勝手気ままに持ち出して、それらを長い間返却したりしなかったので、矢田部教授の研究や教育にも支障をきたし始めたのも「激怒」の要因の一つだっただろうと考察している。
(森敏)
追記:なお、矢田部良吉の詳しい年譜は以下の文献に紹介されている。
矢田部良吉年譜稿 太田由佳・有賀暢迪 Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 39, pp. 27–58, December 22, 2016
田辺は海外留学の後に初代植物学教室教授として、海外から万巻の専門書を購入整備してきたし、国内の植物の押し葉標本も着々と自分で採取して蓄積してきた、授業も担当し後輩を育ててきた。東京大学の職員でもなく、東京大学の学生でもない万太郎に対してその植物愛に心からほだされて、自分の研究室への自由な出入りを許してきた、という自負があった。だから万太郎がいくら植物学雑誌を自費出版するからといって、論文の共著者に田辺の名を掲載していない、謝辞も載せていないことに、心底カチンと来たのである。論文は研究者の命だからである。朝ドラ「らんまん」では、田辺は万太郎に向かってみんなの前で『お前は研究室に土足で入ってきた泥棒』とまで切れまくっている。
ところで、ここのところは牧野富太郎自叙伝(講談社学術文庫)には以下のように記されている。
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図篇第六集が出版されたのが、明治23年であったが、この年私には、思いもよらぬことが起こった。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣言して言うには、「自分もお前とは別に、日本植物誌を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せることは断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封じるようなことをしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に植物の本や標本を見せぬということは撤回してくれ。また先輩は後進を引き立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上がるまでは、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室に来てはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生でもないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。
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これは牧野富太郎による一方的記述であるから100%正確かどうかわからない。この案件を矢田部教授自身がどこかで記している形跡がないからである。とにかく、この後世に残るべき「自叙伝」では、牧野は自分が悪かったと一言も釈明していないのである。
矢田部教授から見ると、当時の研究者としての未熟な牧野富太郎は「自意識過剰で、高慢で、恩義を知らない、恩を仇で返す輩(やから)」のそしりを免れなかっただろうと思われる。
先にこのWINEPブログでも紹介した大場秀章氏や小説家大原冨枝氏等の説では、牧野富太郎が教室の書籍や標本を勝手気ままに持ち出して、それらを長い間返却したりしなかったので、矢田部教授の研究や教育にも支障をきたし始めたのも「激怒」の要因の一つだっただろうと考察している。
(森敏)
追記:なお、矢田部良吉の詳しい年譜は以下の文献に紹介されている。
矢田部良吉年譜稿 太田由佳・有賀暢迪 Bull. Natl. Mus. Nat. Sci., Ser. E, 39, pp. 27–58, December 22, 2016
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