WINEPブログ
「飯舘村のカエルの放射能汚染」
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2023-05-17 16:40 |
カテゴリ:未分類

左がスエ子の墓、右が富太郎の墓。

富太郎の墓の拡大図
「牧野富太郎自叙伝」(講談社学術文庫)を買って読んだのだが、当然といえば当然だが富太郎自身のお墓のありかは書かれていなかった。
次に朝井まかての小説「ボタニカ」(洋伝社)を買って読んでいたら、富太郎の妻である壽衛子や富太郎の臨終の場面が出てくるのだが、お墓のありかは、書かれていなかった。
大原富枝の小説 「草を褥(しとね)に 牧野富太郎」(河出文庫)を図書館から借りて読んでいたら、富太郎の妻である壽衛子の享年56歳の臨終の場面が出てきた。そこに、下谷 谷中の天王寺墓地にある壽衛子の墓石には富太郎の二句
家守りし妻の恵やわが学び
世の中のあらん限りやスエ子笹
が刻まれている、という文章があった。
谷中の墓地は2011年の福島第一原発事故以来、小生が毎年奇形タンポポ調査を続けている勝手知ったる場所なので、天気が快晴ですがすがしい日であったので、のこのこと出かけてみた。
あらかじめgoogle mapでお寺の位置を調べていたので、お寺にはすぐに到達したのだが、お寺の中をさまよってもお墓がなかった。そこでお寺で花束を持っていたおばさんに、「牧野富太郎のお墓をご存じでしょうか?」と聞いてみたら、「知りません。お寺の窓口で聞かれたらいかがですか」というので、窓口へ行って、とんとんとたたいたら、中から若いお坊さんが窓を開けてくれたので「牧野富太郎のお墓はどこでしょうか?」と尋ねたら、「ちょっとお待ちください、」と言って、玄関から下駄をはいて出てきてくれた。
「ちょっとわかりにくいところにありますので、案内いたします」と言ってお寺の門を出て谷中のお墓群のなかに誘導して場所を特定してくれた。この辺りは護国山天王寺のお墓の敷地と谷中墓地の敷地が複雑に入り混じっているんだそうで、とても素人がみつけるのは難しいと思ったことです。谷中の墓地にはお墓の番号の柱が立っているので比較的わかりやすいのですが。
牧野家のお墓には富太郎(右)のお墓と、スエのお墓(左)に花が添えられていた。
スエのお墓の左側面には上記の富太郎による有名な二句が刻まれており、右側面には、
牧野富太郎妻 小沢一政二女 牧野スエ子 享年56歳 昭和三年二月二十三日卒
と刻まれていた。しかしお墓の正面の墓碑銘は風化していて小生には判読できなかった。
富太郎の墓の正面には
結網学人
牧野富太郎
TOMITARO MAKINO DrSc.
APRIL 26.1826-JAN.18.1957
墓
と書かれており、朝比奈泰彦氏による謹書としてお墓の裏面に富太郎の履歴が連綿と刻まれていた。
その中から栄誉を拾うと、朝日文化賞(1937・1・25)、日本学士院会員(1950・10・6)、第一回文化功労者(1951・7)、1957・1・18に没後 従三位勲二等旭日重光章並文化勲章と書かれている。
お墓の左側面には昭和三十三年一月建之
お墓の右側面には昭和三十二年一月十八日没 浄華院殿富嶽頴秀大居士 行年九十六歳
と刻まれていた。
(森敏)
付記1:本日玄関を出ようとしたら、杖がない!
急いで、タクシーで谷中霊園に向かったら、あったあった杖が。
不思議なことに、富太郎と壽衛子の墓には昨日あった生け花がなくなっていた。お坊さんが花を撤去しに来たけれども、小生の杖は、また本人が回収に来るだろうと、気を利かせて、隣のお墓の横に立てかけてくれていたようだ。
付記2:富太郎は妻スエ子に死なれて、あと40年間も孤高の独身を貫いている。その間、離婚して戻ってきた2人の娘たちや孫たちにも、全面的に家事ばかりでなく押し葉の作成など研究面でもおんぶにだっこだったようだ。
付記3:後日友人にお墓を案内した。前回は妻スエ子のお墓の戒名が汚れていて判読できなかったので、持参したテイシュペーパーに水を含ませて、失礼ながら、表面を洗わせてもらったら、何とか文字が判読できた。
妙徳院慈音貞観大姉
というのが、スエ子の戒名である。

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