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2023-04-03 06:43 | カテゴリ:未分類
坂本龍一さんが亡くなった。71歳という若さである。

全くの偶然だが、昨日「旧制高校物語 真のエリートの作り方」(喜多由浩 産経NF文庫)を読んでいたら以下の文が出てきた。

坂本龍一の祖父である東亜国内航空の社長・会長を務めた下村弥一(1897-1990年、旧制5高-京大)は、寮歌や旧制高校を愛していた。::::::::とりわけ、下村が愛した寮歌が5高を代表する『武夫原頭に』だ。:::::::::長女の坂本敬子がこんなエピソードを明かしている。「父は40歳のころからピアノを買い入れ(略)引くのは決まって5高の代表寮歌『武夫原頭』でした。興が乗れば一日に何回でもピアノを伴奏に、武夫原頭を大声で唄う・・・」(平成8年刊、「日本寮歌大全」から)
敬子の一文には息子(下村の孫)がヨチヨチ歩きのころから祖父に抱かれて「武夫原頭」をピアノで弾く場面が出てくる。「孫」とは世界的な音楽家として活躍している坂本龍一(1952生)のことだ。
母敬子はこう書く。「この古ぼけたピアノは、父から娘へ、さらに孫へと「武夫原頭」という同じ曲をテーマに、引き継がれてきたわけで、龍一の音楽の根底には『武夫原頭』のメロデイーが潜在意識として流れていると思います。龍一の音楽の根底にある民族的な要素、簡明直截さ、心の琴線に触れるメロデイーなど、『武夫原頭』から学び取ったものは真に大きいと考えております」と。

小生は坂本龍一さんとは全く接点がないし彼の音楽にも詳しいわけではないが、以下の挿話がある。

東電福島第一原発で被曝したキビタキの死体を2012年お春ごろカメラマンの森住卓さんが東大赤門まで持ってきて、これをラジオオートグラフに取ってくれないか、というので撮像して差し上げた。その写真をどこかで見た坂本龍一さんが「こういう放射能汚染を可視化した映像は放射能の恐ろしさがとても分かりやすい」と東京新聞の編集会議で参与として述べたそうである。そこで記者が小生のところに来て、このキビタキの映像を紙面に使いたいと言ったので承諾した。その写真が東京新聞の全紙大で紹介されたことがある。坂本龍一さんが環境問題に強い興味を抱いていることはわかっていたが、音楽ばかりでなく映像的感覚に対しても嗅覚が鋭いと思ったことである。

以下のブログをご参照ください。
http://moribin.blog114.fc2.com/blog-entry-1478.html
2012/05/29 : キビタキの幼鳥の被爆像
  
  
(森敏)

追記1:さっそく本日4月3日のスポニチにこんな記事がのった。

坂本龍一さん死去 音楽に影響を与えたのは叔父さん 都内の私立高校で数学の教師だった
スポーツニッポン新聞社 の意見 • 昨日 22:02

 坂本さんの音楽に大きな影響を与えたのは、母方の叔父、下村三郎さん(故人)だった。
 都内の私立高校で数学の教師を務めていた下村さんは大の音楽好きでクラシックのアルバムを数百枚自宅に所有していた。ここに坂本さんは幼少期から足繁く通い、レコード鑑賞にふけった。「人生で最も影響を受けた音楽家」としていたドビュッシーに出合ったのも下村さんのコレクションだった。
 坂本さんの母方の祖母美代さんは教育熱心で音楽に力を入れていた人。そんな母親の下、下村さんは食器をわざと落として割ってその音を楽しむという情操教育を受けていた。
 坂本さんが2020年に発表したコンプリートアートボックス「2025」の中には、ニューヨークの自宅で陶器を割る音を採取して制作した曲「fragments,time」があるが、下村さんから幼いころに教わった遊びが根底にあったのかもしれない。
 坂本さんには「音楽との出合いは子供時代に聴いたものが決定的になる」という持論があった。音楽好きの叔父さんと過ごした日々が世界的音楽家の出発点となったと坂本さん自身も思いがあったのだろう。
 下村さんも静かに甥っ子の活躍を喜び、教え子に「龍一にピアノを教えたのは俺なんだ」とちょっぴり自慢げに話すこともあった。

追記2: 坂本事務所の死亡連絡文によると、

 最後に、坂本が好んだ一節をご紹介いたします!

Ars longa vita brevis.

芸術は長く、人生は短し

追記3:以下のWINEPブログもご参照ください。

2010/03/26 : 武夫原頭に草萌えて(旧制五高の碑)

秘密

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