WINEPブログ
「飯舘村のカエルの放射能汚染」
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2023-03-26 06:17 |
カテゴリ:未分類
来る4月3日からNHKで「らんまん」という牧野富太郎の話が始まるらしい。奇しくも来る4月24日は牧野富太郎生誕160周年である。
それを記念してか、雨の日に本屋に立ち寄って見ると「牧野富太郎自叙伝」(文庫本)と作家朝井まかての「ボタニカ」という厚手の単行本が隣り合って平積みされていた。
確か牧野富太郎の伝記は偕成社当たりで出版されていたもので、芦屋市宮川小学校の図書館で子供向けのものを読んだ記憶があるが、今では全く記憶が不確かであったので、事実確認のためにも、この文庫本の自叙伝の方を購入した。

本の目次は
第一部 牧野富太郎自叙伝
第二部 混混録
第三部 父の素顔 牧野鶴代
第一部と第二部は富太郎が高齢になってから書かれたものであるので、内容の繰り返しが多くて、多少へきえきするところがあったが、一方では、また文章の灰汁(あく)の強さに、圧倒された。
小学校中退の酒屋の一人っ子のボンボンが独学で「植物」に目覚め、野山を駆け巡り植物採集を始める。上京して教授の好意で出入りを許された東京大学植物学教室では本格的な「植物学」に目覚める。独自の路線を突っ走るものだからか、教授たちによる陰に陽による何回ものいじめにあう。他方、育ちの良さから来る人柄からか、彼の経済的困窮や学問的窮地を支えてくれる様々な人物の登場が大学内外にあった。多くの全国の植物愛好家を育て、植物学雑誌や植物図鑑を発刊した。89歳の時に日本学士院会員、90歳の時に第一回文化功労者になり、96歳で死後(!)文化勲章を授与されている。
小生には、第3部の牧野の娘である鶴代による牧野富太郎の日常の姿の挿話が非常に面白かった。
世の中のあらん限りやスエコ笹
小生がこの歌を知ったのは、40歳代のときに、隠居して高知にいる両親に会いに帰った時に、高知県立牧野植物園を訪れたときのことである。園の事務所の前に植えていた笹が「スエコ笹」と命名されていることと、その由来が記されていたからである。
草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して五十年
小生がこの歌を知ったのは実に恥ずかしながら、今から10年前に軽井沢植物園で、前園長であった佐藤邦夫氏の業績の展示室を閲覧したときの事である。牧野が、没後授与された文化勲章が飾られていたと記憶する。
これに関しては、WINEPブログ
軽井沢町植物園と佐藤邦雄氏の功績 を参照ください。
以上の2つの歌は今日牧野富太郎にまつわる必須の短歌であると思う。
小生は中学校の時に六甲山でドーランを下げて植物採集をしていて、採取してきたシダの同定に芦屋市の打出図書館から『牧野植物図鑑』を頻繁に借りてきて、牧野富太郎には随分お世話になっていたのだが、当時は彼の生い立ちや和歌や俳句には金輪際興味がなかった。
この自叙伝にはいくつもの富太郎による自己流短歌が時宜に応じて詠まれているのでそれをいくつか紹介する。
今日の今まで通した意地も捨てにゃならない血の涙
(大学からもらいたくもないので固辞し続けていた博士の学位を諸般の事情で押し付けられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている。しかし一方で以下のように、感謝もしている。)
早く分かれてあの世に在ます父母におわびのよいみやげ
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
(富太郎の妻寿衛子は昭和三年55歳で永眠しているがそれまでに13人もの子供を産んでいる。)
沈む木の葉も流れの工合
浮かぶその瀬もないじゃない
(経済的に困窮し、学問的に植物学教室への出入り禁止の迫害を受けたりしたが、その都度誰かが助けてくれた)
長く住みしかびの古屋をあとにして
気の清(す)む野辺にわれは呼吸(いき)せむ
何時(いつ)までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば
なによりも貴とき宝持つ身には富も誉れも願わざりけり
(ここでいう宝とは「植物」の事である)
百歳に尚道遠く雲霞
わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り
赤黄紫さまざま咲いて
どれも可愛い恋の主
年をとっても浮気はやまぬ
恋し草木のある限り
恋の草木を両手に持ちて
劣り優(まさ)りのないながめ
(森敏)
付記1:小生の父(繁広)が高知市下賀茂の生まれなので、この自叙伝を読みながら、「いごっそう」(頑固者)の父と富太郎と比べながら、両者の類似の性格に思わず笑いだしたカ所もあった。
牧野富太郎が今生きていたら、生来向こう見ずの小生と馬があうような気がした。彼には迷惑な話だろうが。
付記2:自叙伝を読みながら、文章中に非常に難解だが的確な表現の漢字が続々と出てくるのには驚く。富太郎は小学校自主中退だが、その後漢籍の基礎をどこかで習ったようだ。しかし驚くべき教養である。辞書を引き引きでなければとても書けなかっただろうと思われる。
付記3:本の厚さが7センチもある分厚い、牧野が手書きの「牧野日本植物図鑑」(北隆館)は、2011年以来福島県で放射能汚染植物を採取してきたものの同定に今でも愛用している。神田の古本屋街で40年ほど前に衝動的に定価15,450円のものを4500円で安く購入したものである。この本の英語表記は
AN ILLUSTRATED FLORA OF JAPAN by Dr.T.MAKINO 1940
であり、富太郎がいやがった(Dr.)の肩書で書かれている。
付記4:自叙伝の第三部で結婚して出戻った娘の牧野鶴代が父富太郎が、植物を現場で根がちぎれないように丁寧に採取して、それを丁寧に水で洗って新聞紙に挟んで乾かして押し葉にする工程が詳しく描写されている。これらの作業には鶴代の寄与が多大であったと思われる。生涯で5万点もの植物標本を作り、なおそのイラストを描き、説明文をつけるなんて、常人ではとても考えられない、まさに超人業である。野球でいう二刀流大谷翔平以上の3刀流の業(わざ)である。
小生の福島での植物採種の場合は、放射能汚染した土が植物の根についているので、それが地上部に飛散して絶対に二次汚染(artifact)しないように、慎重に現場で新聞紙に挟んで脱水する工程が非常に難儀であった。現場では植物採取のたびに使い捨て手袋をとりかえるのである。車の中に新聞紙を50日分以上積んで、植物採取後直ちに挟んで脱水し、なお大学に持ち帰って数回新聞紙を取り換えて重しを置いて脱水しないと、きれいな押し葉の芸術的なオートラジオグラフ像が撮れないのである。全体的に富太郎の場合よりもはるかに慎重さが要求されたと思う。
付記5:ここまで書いて、なぜかふと思い出して朝井まかての「ボタニカ」を買いに行くことにした。作家が植物学者の一生をどのように表現しているのか、興味がわいてきた。
追記1:「らんまん」 と聞けば、小生の頭には寮歌「春爛漫」がすぐに口に出てくる。
もっとも今では最初の出だしの、春爛漫の花のいろ 紫匂ふ雲間より 以降は度忘れしているが。。。
春爛漫の花の色
紫匂ふ雲間より
紅(くれない)深き朝日影
長閑(のど)けき光
さし添えば
鳥は囀(さえず)り
蝶は舞ひ
散り来る花も光あり
第一高等学校寮歌
作詞 矢野勘治
作曲 豊原雄太郎
この歌は今回始まるNHKテレビ小説「らんまん」でもどこかに登場させてほしいものだ。
それを記念してか、雨の日に本屋に立ち寄って見ると「牧野富太郎自叙伝」(文庫本)と作家朝井まかての「ボタニカ」という厚手の単行本が隣り合って平積みされていた。
確か牧野富太郎の伝記は偕成社当たりで出版されていたもので、芦屋市宮川小学校の図書館で子供向けのものを読んだ記憶があるが、今では全く記憶が不確かであったので、事実確認のためにも、この文庫本の自叙伝の方を購入した。

本の目次は
第一部 牧野富太郎自叙伝
第二部 混混録
第三部 父の素顔 牧野鶴代
第一部と第二部は富太郎が高齢になってから書かれたものであるので、内容の繰り返しが多くて、多少へきえきするところがあったが、一方では、また文章の灰汁(あく)の強さに、圧倒された。
小学校中退の酒屋の一人っ子のボンボンが独学で「植物」に目覚め、野山を駆け巡り植物採集を始める。上京して教授の好意で出入りを許された東京大学植物学教室では本格的な「植物学」に目覚める。独自の路線を突っ走るものだからか、教授たちによる陰に陽による何回ものいじめにあう。他方、育ちの良さから来る人柄からか、彼の経済的困窮や学問的窮地を支えてくれる様々な人物の登場が大学内外にあった。多くの全国の植物愛好家を育て、植物学雑誌や植物図鑑を発刊した。89歳の時に日本学士院会員、90歳の時に第一回文化功労者になり、96歳で死後(!)文化勲章を授与されている。
小生には、第3部の牧野の娘である鶴代による牧野富太郎の日常の姿の挿話が非常に面白かった。
世の中のあらん限りやスエコ笹
小生がこの歌を知ったのは、40歳代のときに、隠居して高知にいる両親に会いに帰った時に、高知県立牧野植物園を訪れたときのことである。園の事務所の前に植えていた笹が「スエコ笹」と命名されていることと、その由来が記されていたからである。
草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して五十年
小生がこの歌を知ったのは実に恥ずかしながら、今から10年前に軽井沢植物園で、前園長であった佐藤邦夫氏の業績の展示室を閲覧したときの事である。牧野が、没後授与された文化勲章が飾られていたと記憶する。
これに関しては、WINEPブログ
軽井沢町植物園と佐藤邦雄氏の功績 を参照ください。
以上の2つの歌は今日牧野富太郎にまつわる必須の短歌であると思う。
小生は中学校の時に六甲山でドーランを下げて植物採集をしていて、採取してきたシダの同定に芦屋市の打出図書館から『牧野植物図鑑』を頻繁に借りてきて、牧野富太郎には随分お世話になっていたのだが、当時は彼の生い立ちや和歌や俳句には金輪際興味がなかった。
この自叙伝にはいくつもの富太郎による自己流短歌が時宜に応じて詠まれているのでそれをいくつか紹介する。
今日の今まで通した意地も捨てにゃならない血の涙
(大学からもらいたくもないので固辞し続けていた博士の学位を諸般の事情で押し付けられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている。しかし一方で以下のように、感謝もしている。)
早く分かれてあの世に在ます父母におわびのよいみやげ
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
(富太郎の妻寿衛子は昭和三年55歳で永眠しているがそれまでに13人もの子供を産んでいる。)
沈む木の葉も流れの工合
浮かぶその瀬もないじゃない
(経済的に困窮し、学問的に植物学教室への出入り禁止の迫害を受けたりしたが、その都度誰かが助けてくれた)
長く住みしかびの古屋をあとにして
気の清(す)む野辺にわれは呼吸(いき)せむ
何時(いつ)までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば
なによりも貴とき宝持つ身には富も誉れも願わざりけり
(ここでいう宝とは「植物」の事である)
百歳に尚道遠く雲霞
わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り
赤黄紫さまざま咲いて
どれも可愛い恋の主
年をとっても浮気はやまぬ
恋し草木のある限り
恋の草木を両手に持ちて
劣り優(まさ)りのないながめ
(森敏)
付記1:小生の父(繁広)が高知市下賀茂の生まれなので、この自叙伝を読みながら、「いごっそう」(頑固者)の父と富太郎と比べながら、両者の類似の性格に思わず笑いだしたカ所もあった。
牧野富太郎が今生きていたら、生来向こう見ずの小生と馬があうような気がした。彼には迷惑な話だろうが。
付記2:自叙伝を読みながら、文章中に非常に難解だが的確な表現の漢字が続々と出てくるのには驚く。富太郎は小学校自主中退だが、その後漢籍の基礎をどこかで習ったようだ。しかし驚くべき教養である。辞書を引き引きでなければとても書けなかっただろうと思われる。
付記3:本の厚さが7センチもある分厚い、牧野が手書きの「牧野日本植物図鑑」(北隆館)は、2011年以来福島県で放射能汚染植物を採取してきたものの同定に今でも愛用している。神田の古本屋街で40年ほど前に衝動的に定価15,450円のものを4500円で安く購入したものである。この本の英語表記は
AN ILLUSTRATED FLORA OF JAPAN by Dr.T.MAKINO 1940
であり、富太郎がいやがった(Dr.)の肩書で書かれている。
付記4:自叙伝の第三部で結婚して出戻った娘の牧野鶴代が父富太郎が、植物を現場で根がちぎれないように丁寧に採取して、それを丁寧に水で洗って新聞紙に挟んで乾かして押し葉にする工程が詳しく描写されている。これらの作業には鶴代の寄与が多大であったと思われる。生涯で5万点もの植物標本を作り、なおそのイラストを描き、説明文をつけるなんて、常人ではとても考えられない、まさに超人業である。野球でいう二刀流大谷翔平以上の3刀流の業(わざ)である。
小生の福島での植物採種の場合は、放射能汚染した土が植物の根についているので、それが地上部に飛散して絶対に二次汚染(artifact)しないように、慎重に現場で新聞紙に挟んで脱水する工程が非常に難儀であった。現場では植物採取のたびに使い捨て手袋をとりかえるのである。車の中に新聞紙を50日分以上積んで、植物採取後直ちに挟んで脱水し、なお大学に持ち帰って数回新聞紙を取り換えて重しを置いて脱水しないと、きれいな押し葉の芸術的なオートラジオグラフ像が撮れないのである。全体的に富太郎の場合よりもはるかに慎重さが要求されたと思う。
付記5:ここまで書いて、なぜかふと思い出して朝井まかての「ボタニカ」を買いに行くことにした。作家が植物学者の一生をどのように表現しているのか、興味がわいてきた。
追記1:「らんまん」 と聞けば、小生の頭には寮歌「春爛漫」がすぐに口に出てくる。
もっとも今では最初の出だしの、春爛漫の花のいろ 紫匂ふ雲間より 以降は度忘れしているが。。。
春爛漫の花の色
紫匂ふ雲間より
紅(くれない)深き朝日影
長閑(のど)けき光
さし添えば
鳥は囀(さえず)り
蝶は舞ひ
散り来る花も光あり
第一高等学校寮歌
作詞 矢野勘治
作曲 豊原雄太郎
この歌は今回始まるNHKテレビ小説「らんまん」でもどこかに登場させてほしいものだ。
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