2008-09-21 05:27 | カテゴリ:未分類

hakkoudamaru.jpg 

    青函連絡船メモリアルシップ:八甲田丸

  

mutsuwann.jpg

灯台の先が陸奥湾、その向こうが下北半島、その向こうが北海道

  

  

 

八甲田丸

 

青森での学会に来たついでに、早朝6時に起きて、JA青森駅周辺を散歩した。青森港の青い海公園の対岸には、かっての青函連絡船のメモリアルシップとして黄色い肌の八甲田丸(はっこうだまると読む)が係留されていた。(先日このブログで南極観測船宗谷を紹介したが、そのゆりかもめ線の「舟の科学館」駅では洋上に羊蹄丸が係留されており、八甲田丸と同じくかっての青函連絡船のメモリアルシップとして黄色い肌を浮かべている。)

 

当時、次兄が富士鉄室蘭工場(その後合併して新日鉄となった)に技術者として勤めていたので、大学の2年生の秋の試験休みに、兄の独身寮を拠点にすべく北海道観光に出かけた。

 

実家の兵庫県の芦屋から裏日本経由の寝台列車で青森駅に着いたのは夜で、台風で青函連絡船の八甲田丸が出るのが遅くてずいぶん港の待合室で待たされた。その時の待合室のテレビでの重大ニュースが確か「有人衛星の打ち上げにソビエトが成功した」というものであったように思う。何となく客が騒然としたことを覚えている。

 

すなわちソ連は1961年、ユーリ・A ガガーリン少佐を乗せた初の有人衛星「ヴォストーク1号」の打ち上げに成功し『地球は青かった』という名科白(せりふ)を残したのであった。この宇宙開発に屈辱的な遅れを取ったアメリカのケネデイ大統領が、その年に、宇宙開発政策の大転換を行った。人類最初の「月面着陸」を目指す開発戦略を世界に宣言したのであった。

 

当時のソビエトの科学技術は宇宙開発では最先端を行っていた。当時のマルクス主義思想の影響もあってか、我々大学生の大部分は大いにソビエトという国に対してあこがれを抱いていた。おかげで小生もロシア語を勉強し始めた。寮の同室の先輩がロシヤ語が堪能であったことも影響をうけたものと思われる。しかしすぐに挫折した。語学の才のない小生には第2外国語のドイツ語もろくろく出来ないのに、とてもロシア語は無理であった。いまは女性飛行士テレシコワ女史の発した「ヤ・チャイカ」(私はカモメ)ぐらいしか覚えていない。徒労感が残っている。

 

  青函連絡船ではじめて渡った北海道は広々として本当に気分が良かった。若いその頃の小生は、いなり寿司数個と水筒で、室蘭岳に一人で日帰りで登頂する超健脚ぶりであった。

 

(森敏)

秘密

トラックバックURL
→http://moribin.blog114.fc2.com/tb.php/260-51316dd5