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2023-08-25 13:04 | カテゴリ:未分類
   本日のNHK朝ドラ「らんまん」では、お座敷で、牧野富太郎の妻スエコの説明に対して岩崎弥之助が感銘を受けた「ノジギク」が登場しました。この場面を境に、土佐出身の岩崎弥之助(豪商岩崎弥太郎の息子)と同じく土佐の出身の牧野富太郎が以後の関係を持つことになります。

   この「ノジギク」に関しては、5年まえの2017年に、福島県浪江地区の高瀬川の道路わきで採取したノジギクに関して、以下に記す WINEPブログ で、放射能測定値とオートラジオグラフの図を紹介して、詳しい説明もしておきました。このブログの読者はおぼえておられるかもしれませんが、ぜひ改めて鑑賞のほどお願いいたします。

   この「ノジギク」は牧野富太郎が全国を回って様々なキクを採取した結果、日本の菊の原種であろうと考えて、彼自身が描いた図版を「牧野日本植物図鑑」に1ページ大に気合を入れて掲載しています。


2017/01/25 : 牧野富太郎が命名した のぢきく(野路菊 )の放射能汚染

   このブログの右にある空欄に ノジギク と入れてクリックすれば上記ブログ文がでてきます



(森敏)

付記: その後、様々なキクの遺伝子解析の結果、この牧野富太郎が指名した 「ノジギク: Chrysanthemum japonense (Makino) Nakai]
 が、日本の菊の原種であるという結果になっているのかどうかは、残念ながら小生は存知あげません。
2023-07-03 11:22 | カテゴリ:未分類
スライド2
表1。市販のあんぽ柿の放射能(ベクレル)/1kg生体重)。 生産者の氏名は〇でぼかしている
    
    2022年の11月9日に、福島県丸森町の耕野地区で育てられた干し柿用の柿が、奇形を起こしていることをTBSが報じた。奇形果が発生した原因はいまだに究明されていないようである(下図1)
    
    過去の文献には32年前の平成2年(1990年)に、福島県北の平坦部で同じような現象があり、アンポ柿の原料となる「蜂屋」に多く、「平核無」では少なく、 「会津見不知」ではほとんど発生しなかった、と報告されている。
naro.affrc.go.jp2. matome.eternalcollegest.com3. pref.fukushima.lg.jp
    
    今回のTBSの放送ではカキの異常果が発生した品種名の詳しいことはわからなかった。しかしアンポ柿の放射能汚染が友人からと、WINEPブログの読者からも懸念がコメントされてきた。なので、文京区のスーパーと青果店に出回っている「アンポ柿」を8点買い求めた。
    
    残念ながら小生は現在足腰が弱って福島県丸森町での現地調査ができないので、東京で手に入れることができる、福島県のほかの地域のアンポ柿を購入した次第です。
    
    東大農学部RI測定室のゲルマニウム半導体測定器で金曜日から土日月にかけて、1サンプルに付き61時間もかけて精密測定してもらった。(上図1)。全部で8点測定するのに3か月もかかった。
    
    測定結果は見ての通りで、2011年に東電福島第一原発から放出されたはずのCs-134は検出限界以下であったので表1には示していない、Cs-137が数ベクレル以下とごくわずかな値が検出された。この値は現在でも日本の各地の森林植生のほとんどの部分から検出される値に近く、37年前の1986年4月のチェリノブイリ原発事故で飛んできて土壌に残留する放射能由来と東電福島第一原発からの土壌や柿の木に残留する放射能由来が合算されたものと思われる。
  
    表1に示すK-40の250ベクレル前後の値は、天然の土壌粘土鉱物由来の放射能であり、我々は果物から絶えずこの濃度のカリウムの放射能を体内に取り込んでいるので、本来問題にすべき放射能ではない。
   
    表1に示すように測定したサンプルの6個入りとか、4個入りの袋には、この表の最初の2点を除いて生産者の氏名が明記されていたので、生産者は自信満々(放射能汚染はないものとして)市場に出しているものと思われた。だから当初から放射能を測るのは徒労と思われたのだが、結果はその通りになった。まずはめでたしめでたしである。
   
    さて、肝心の福島県丸森町の耕野地区の奇形カキの問題は、あくまで推測の域を出ないが、放射能以外の何らかの外的環境要因で、カキの実の胚の発生段階で帯化遺伝子に異常が起こったがゆえのものと思われる。
   
    これは小生が今でもしつこく追いかけている「タンポポの帯化奇形」や、「帯化巨大イチゴ」などと同じ現象と思われる。専門用語でいえばepigeneticな変異と思われる。同じカキの木で今年も同じ現象が起こるかもしれないが、次第に頻度が低くなり収束していくのではないだろうか。
   
スライド1 (2)
図1。カキの奇形果の種類(テレビからの転載)
  
  
(森敏)
2023-05-20 11:43 | カテゴリ:未分類
日本人としてウクライナを勝たせるためにどういう貢献をすべきでしょうか?と悩んでいる大人が多いようだ。私見ではウクライナ問題に関心を持ち続けることが第一の支援だと思う。

そこで、遅まきながらも、Bingに聞いてみた。以下が返事です。

ウクライナを勝たせるために日本人として貢献できることはいろいろあります。例えば、以下のようなことが挙げられます。
• 国際機関への寄付:ウクライナに対するロシアの軍事侵攻により、多くの人々が避難生活を強いられています。国連やユニセフなどの国際機関は、人道支援や平和構築のために活動していますが、資金や物資が不足しています。日本人は、これらの機関に寄付をすることで、ウクライナの人々を支援することができます1,2。

• 日本企業の支援活動への参加:日本企業の中には、ウクライナへの支援活動を行っているところもあります。例えば、イオンやユニクロ、日清食品ホールディングスなどは、生活物資や衣料品などを現地に送ったり、国際機関に寄付したりしています1。また、トヨタ自動車やドン・キホーテなどは、ウクライナから日本に避難してきた人々に住宅や仕事の提供を行っています 1。日本人は、これらの企業の支援活動に参加したり、購入したりすることで、ウクライナを勝たせることができます。

• JICAの協力事業への関心:JICAは、ウクライナの自立的・持続的経済成長を後押しするために、我が国独自の技術や知見等を活かした協力事業を実施しています。例えば、農業分野では、農業生産性向上や農産物加工・流通改善などを支援し、食料安全保障や農村振興に貢献しています 3。また、エネルギー分野では、エネルギー効率改善や再生可能エネルギー導入などを支援し、温室効果ガス削減やエネルギー安全保障に貢献しています 3。日本人は、JICAのウェブサイトやSNSなどでこれらの協力事業に関心を持ったり、情報発信したりすることで、ウクライナを勝たせることができます。

以上のように、日本人としてウクライナを勝たせるために貢献できることは多くあります。ウクライナはロシアによる侵略に勇敢に抵抗しており、日本から何ができるかと考える必要があります1。
詳細情報:
1. www3.nhk.or.jp 2. www3.nhk.or.jp 3. jica.go.jp4. nhk.or.jp


駐日ウクライナ大使がこれまでの日本人の貢献として以下の期待と感謝を述べている。

インフラ復興で「新幹線」=日本の技術に期待―駐日ウクライナ大使

時事通信
 ウクライナのセルギー・コルスンスキー駐日大使は18日までに、ロシアの侵攻で破壊されたウクライナの鉄道インフラ復興に際し、日本の「新幹線」のような高速鉄道の整備を検討していると明らかにした。日本政府や新幹線の製造を手がける日立製作所と協議していると説明。日本の技術に強い期待感を示した。

 コルスンスキー大使は、先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を前にインタビューに応じた。この中で「国家インフラ開発プロジェクトとして、スピードと快適性の観点から新幹線に似た全く新しい鉄道システムを建設する可能性について、協議を始めた」と明言。高速鉄道網の整備に関し、運行システムを含め高い技術を持つ日本の支援を望んでいると語った。

 さらに、破壊された建物や道路の再建にとどまらず、「ウクライナの経済を近代化させるプロジェクトを実現させたい」と強調。インフラ分野のほか、主要産業である農業分野への投資も訴えた

 ロシアによる核兵器使用の脅威にさらされる中、G7に軍事面でさらなる支援を要請。「国民を守るためにはできるだけ多くの高性能な武器が必要だ」と訴えた。ロシアが2014年に併合した南部クリミア半島を含め、全ての領土から撤退することが対ロ交渉に応じる「最も重要な前提条件だ」と、ウクライナ政府の立場を改めて示した。

 武器供与に制約がある日本が果たす役割については、「他国の復興支援で培った経験があり、金融大国でもある」と語り、軍事面にとどまらない独自の貢献の在り方を歓迎。港湾都市オデッサに横浜市が浄水装置を送るなど、自治体レベルでの支援に謝意を示した。

 日本が受け入れているウクライナからの避難民は約2300人。欧米に比べれば少ないものの、コルスンスキー大使は「大きな数字だ。多くの学生が授業料の免除を受け、大学で学んでいる」と評価した。また「避難民が困難な時期に地域の人々に受け入れられていると感じることが非常に重要だ」と述べ、日本の市民に協力を呼びかけた。


ーーーーーーー

(森敏)
付記:小生は東京大学に避難して留学しているウクライナ人学生へのカンパをしたことはすでに述べた。役立っているようでうれしい。戦争は長引きそうです。年寄りは身銭を切って大いにカンパしましょう。

小生の教え子が2011年3月11日の東日本大震災で、東電福島原発からの放射能汚染被ばくにおびえて、一年間ドイツ政府の特別非常事態支援で避難留学できたことがあったことにいまさらながら思いをはせている。
2023-04-03 06:43 | カテゴリ:未分類
坂本龍一さんが亡くなった。71歳という若さである。

全くの偶然だが、昨日「旧制高校物語 真のエリートの作り方」(喜多由浩 産経NF文庫)を読んでいたら以下の文が出てきた。

坂本龍一の祖父である東亜国内航空の社長・会長を務めた下村弥一(1897-1990年、旧制5高-京大)は、寮歌や旧制高校を愛していた。::::::::とりわけ、下村が愛した寮歌が5高を代表する『武夫原頭に』だ。:::::::::長女の坂本敬子がこんなエピソードを明かしている。「父は40歳のころからピアノを買い入れ(略)引くのは決まって5高の代表寮歌『武夫原頭』でした。興が乗れば一日に何回でもピアノを伴奏に、武夫原頭を大声で唄う・・・」(平成8年刊、「日本寮歌大全」から)
敬子の一文には息子(下村の孫)がヨチヨチ歩きのころから祖父に抱かれて「武夫原頭」をピアノで弾く場面が出てくる。「孫」とは世界的な音楽家として活躍している坂本龍一(1952生)のことだ。
母敬子はこう書く。「この古ぼけたピアノは、父から娘へ、さらに孫へと「武夫原頭」という同じ曲をテーマに、引き継がれてきたわけで、龍一の音楽の根底には『武夫原頭』のメロデイーが潜在意識として流れていると思います。龍一の音楽の根底にある民族的な要素、簡明直截さ、心の琴線に触れるメロデイーなど、『武夫原頭』から学び取ったものは真に大きいと考えております」と。

小生は坂本龍一さんとは全く接点がないし彼の音楽にも詳しいわけではないが、以下の挿話がある。

東電福島第一原発で被曝したキビタキの死体を2012年お春ごろカメラマンの森住卓さんが東大赤門まで持ってきて、これをラジオオートグラフに取ってくれないか、というので撮像して差し上げた。その写真をどこかで見た坂本龍一さんが「こういう放射能汚染を可視化した映像は放射能の恐ろしさがとても分かりやすい」と東京新聞の編集会議で参与として述べたそうである。そこで記者が小生のところに来て、このキビタキの映像を紙面に使いたいと言ったので承諾した。その写真が東京新聞の全紙大で紹介されたことがある。坂本龍一さんが環境問題に強い興味を抱いていることはわかっていたが、音楽ばかりでなく映像的感覚に対しても嗅覚が鋭いと思ったことである。

以下のブログをご参照ください。
http://moribin.blog114.fc2.com/blog-entry-1478.html
2012/05/29 : キビタキの幼鳥の被爆像
  
  
(森敏)

追記1:さっそく本日4月3日のスポニチにこんな記事がのった。

坂本龍一さん死去 音楽に影響を与えたのは叔父さん 都内の私立高校で数学の教師だった
スポーツニッポン新聞社 の意見 • 昨日 22:02

 坂本さんの音楽に大きな影響を与えたのは、母方の叔父、下村三郎さん(故人)だった。
 都内の私立高校で数学の教師を務めていた下村さんは大の音楽好きでクラシックのアルバムを数百枚自宅に所有していた。ここに坂本さんは幼少期から足繁く通い、レコード鑑賞にふけった。「人生で最も影響を受けた音楽家」としていたドビュッシーに出合ったのも下村さんのコレクションだった。
 坂本さんの母方の祖母美代さんは教育熱心で音楽に力を入れていた人。そんな母親の下、下村さんは食器をわざと落として割ってその音を楽しむという情操教育を受けていた。
 坂本さんが2020年に発表したコンプリートアートボックス「2025」の中には、ニューヨークの自宅で陶器を割る音を採取して制作した曲「fragments,time」があるが、下村さんから幼いころに教わった遊びが根底にあったのかもしれない。
 坂本さんには「音楽との出合いは子供時代に聴いたものが決定的になる」という持論があった。音楽好きの叔父さんと過ごした日々が世界的音楽家の出発点となったと坂本さん自身も思いがあったのだろう。
 下村さんも静かに甥っ子の活躍を喜び、教え子に「龍一にピアノを教えたのは俺なんだ」とちょっぴり自慢げに話すこともあった。

追記2: 坂本事務所の死亡連絡文によると、

 最後に、坂本が好んだ一節をご紹介いたします!

Ars longa vita brevis.

芸術は長く、人生は短し

追記3:以下のWINEPブログもご参照ください。

2010/03/26 : 武夫原頭に草萌えて(旧制五高の碑)

2023-03-26 06:17 | カテゴリ:未分類
来る4月3日からNHKで「らんまん」という牧野富太郎の話が始まるらしい。奇しくも来る4月24日は牧野富太郎生誕160周年である。

それを記念してか、雨の日に本屋に立ち寄って見ると「牧野富太郎自叙伝」(文庫本)と作家朝井まかての「ボタニカ」という厚手の単行本が隣り合って平積みされていた。

確か牧野富太郎の伝記は偕成社当たりで出版されていたもので、芦屋市宮川小学校の図書館で子供向けのものを読んだ記憶があるが、今では全く記憶が不確かであったので、事実確認のためにも、この文庫本の自叙伝の方を購入した。

スライド2

 
本の目次は
第一部 牧野富太郎自叙伝
第二部 混混録
第三部 父の素顔 牧野鶴代

第一部と第二部は富太郎が高齢になってから書かれたものであるので、内容の繰り返しが多くて、多少へきえきするところがあったが、一方では、また文章の灰汁(あく)の強さに、圧倒された。

小学校中退の酒屋の一人っ子のボンボンが独学で「植物」に目覚め、野山を駆け巡り植物採集を始める。上京して教授の好意で出入りを許された東京大学植物学教室では本格的な「植物学」に目覚める。独自の路線を突っ走るものだからか、教授たちによる陰に陽による何回ものいじめにあう。他方、育ちの良さから来る人柄からか、彼の経済的困窮や学問的窮地を支えてくれる様々な人物の登場が大学内外にあった。多くの全国の植物愛好家を育て、植物学雑誌や植物図鑑を発刊した。89歳の時に日本学士院会員、90歳の時に第一回文化功労者になり、96歳で死後(!)文化勲章を授与されている。
小生には、第3部の牧野の娘である鶴代による牧野富太郎の日常の姿の挿話が非常に面白かった。



世の中のあらん限りやスエコ笹

小生がこの歌を知ったのは、40歳代のときに、隠居して高知にいる両親に会いに帰った時に、高知県立牧野植物園を訪れたときのことである。園の事務所の前に植えていた笹が「スエコ笹」と命名されていることと、その由来が記されていたからである。

草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して五十年
小生がこの歌を知ったのは実に恥ずかしながら、今から10年前に軽井沢植物園で、前園長であった佐藤邦夫氏の業績の展示室を閲覧したときの事である。牧野が、没後授与された文化勲章が飾られていたと記憶する。
これに関しては、WINEPブログ
軽井沢町植物園と佐藤邦雄氏の功績  を参照ください。

以上の2つの歌は今日牧野富太郎にまつわる必須の短歌であると思う。

小生は中学校の時に六甲山でドーランを下げて植物採集をしていて、採取してきたシダの同定に芦屋市の打出図書館から『牧野植物図鑑』を頻繁に借りてきて、牧野富太郎には随分お世話になっていたのだが、当時は彼の生い立ちや和歌や俳句には金輪際興味がなかった。

この自叙伝にはいくつもの富太郎による自己流短歌が時宜に応じて詠まれているのでそれをいくつか紹介する。

今日の今まで通した意地も捨てにゃならない血の涙
 (大学からもらいたくもないので固辞し続けていた博士の学位を諸般の事情で押し付けられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている。しかし一方で以下のように、感謝もしている。)
早く分かれてあの世に在ます父母におわびのよいみやげ

家守りし妻の恵みやわが学び

世の中のあらん限りやスエコ笹
 (富太郎の妻寿衛子は昭和三年55歳で永眠しているがそれまでに13人もの子供を産んでいる。)

沈む木の葉も流れの工合 
  浮かぶその瀬もないじゃない

 (経済的に困窮し、学問的に植物学教室への出入り禁止の迫害を受けたりしたが、その都度誰かが助けてくれた)

長く住みしかびの古屋をあとにして 
  気の清(す)む野辺にわれは呼吸(いき)せむ


何時(いつ)までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば

なによりも貴とき宝持つ身には富も誉れも願わざりけり
(ここでいう宝とは「植物」の事である)

百歳に尚道遠く雲霞


わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り

赤黄紫さまざま咲いて
  どれも可愛い恋の主

年をとっても浮気はやまぬ
  恋し草木のある限り

恋の草木を両手に持ちて
  劣り優(まさ)りのないながめ

 
  
(森敏)
付記1:小生の父(繁広)が高知市下賀茂の生まれなので、この自叙伝を読みながら、「いごっそう」(頑固者)の父と富太郎と比べながら、両者の類似の性格に思わず笑いだしたカ所もあった。
牧野富太郎が今生きていたら、生来向こう見ずの小生と馬があうような気がした。彼には迷惑な話だろうが。

付記2:自叙伝を読みながら、文章中に非常に難解だが的確な表現の漢字が続々と出てくるのには驚く。富太郎は小学校自主中退だが、その後漢籍の基礎をどこかで習ったようだ。しかし驚くべき教養である。辞書を引き引きでなければとても書けなかっただろうと思われる。

付記3:本の厚さが7センチもある分厚い、牧野が手書きの「牧野日本植物図鑑」(北隆館)は、2011年以来福島県で放射能汚染植物を採取してきたものの同定に今でも愛用している。神田の古本屋街で40年ほど前に衝動的に定価15,450円のものを4500円で安く購入したものである。この本の英語表記は
AN ILLUSTRATED FLORA OF JAPAN by Dr.T.MAKINO 1940
であり、富太郎がいやがった(Dr.)の肩書で書かれている。

付記4:自叙伝の第三部で結婚して出戻った娘の牧野鶴代が父富太郎が、植物を現場で根がちぎれないように丁寧に採取して、それを丁寧に水で洗って新聞紙に挟んで乾かして押し葉にする工程が詳しく描写されている。これらの作業には鶴代の寄与が多大であったと思われる。生涯で5万点もの植物標本を作り、なおそのイラストを描き、説明文をつけるなんて、常人ではとても考えられない、まさに超人業である。野球でいう二刀流大谷翔平以上の3刀流の業(わざ)である。

小生の福島での植物採種の場合は、放射能汚染した土が植物の根についているので、それが地上部に飛散して絶対に二次汚染(artifact)しないように、慎重に現場で新聞紙に挟んで脱水する工程が非常に難儀であった。現場では植物採取のたびに使い捨て手袋をとりかえるのである。車の中に新聞紙を50日分以上積んで、植物採取後直ちに挟んで脱水し、なお大学に持ち帰って数回新聞紙を取り換えて重しを置いて脱水しないと、きれいな押し葉の芸術的なオートラジオグラフ像が撮れないのである。全体的に富太郎の場合よりもはるかに慎重さが要求されたと思う。

付記5:ここまで書いて、なぜかふと思い出して朝井まかての「ボタニカ」を買いに行くことにした。作家が植物学者の一生をどのように表現しているのか、興味がわいてきた。

追記1:「らんまん」 と聞けば、小生の頭には寮歌「春爛漫」がすぐに口に出てくる。
もっとも今では最初の出だしの、春爛漫の花のいろ 紫匂ふ雲間より 以降は度忘れしているが。。。

春爛漫の花の色
紫匂ふ雲間より
紅(くれない)深き朝日影
長閑(のど)けき光
さし添えば
鳥は囀(さえず)り 
蝶は舞ひ
散り来る花も光あ


第一高等学校寮歌
作詞 矢野勘治
作曲 豊原雄太郎

この歌は今回始まるNHKテレビ小説「らんまん」でもどこかに登場させてほしいものだ。


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