2008-08-26 05:01 | カテゴリ:未分類

souya.jpg 

    見学者用に繋留されている南極観測船宗谷

診療 

モデル人形(医師と患者)を使った宗谷の治療室の模様の再現

ishinotsukue.jpg 

      医師が座っていたであろう机

  机の上にあるのは診療簿、レントゲン写真の透視板など

 

南極観測船「宗谷」を見学した

 

東京のゆりかもめ線「船の科学館」駅を降りると、係留されている南極観測船「宗谷」が見学できる。案内嬢によると建前上は見学は無料らしいのだが、一応「寄付」と称して、700円の券を買ってくださいということであった。そこら辺が極めて曖昧不明朗な扱いであった。

 

さて、それはいいとして、小生にはこの「宗谷」には少し思い入れがある。

 

1956年11月に第一次観測隊が「宗谷」に乗って日本を出発したときに、兵庫県芦屋市精道中学校の正面玄関入り口の掲示板に模造紙に手書きの世界地図を貼り付けて、出発後の宗谷の航路を毎日赤鉛筆で書き込むのが、当時のわれわれ自治会の委員の日課であった。また、その掲示板の下には南極観測隊のための寄金箱が設置されており、全校生徒達のわずかな小遣いを募って、それを、どこかの新聞社に支援金として送った記憶がある。要するに、国を挙げての科学教育に、この南極観測という世界的なイベントは使われたのでもあった。

 

南極観測と言っても、いったい南極に何をしに行くのか良く理解できていなかったが、零下50度以下で寒くて、氷が張っていて、たいへんなところに行くんだという、冒険精神をかき立てたところがあったように思う。その時、南極探検や北極探検という言葉から啓発されてアムンゼンやスコットや白瀬中尉やリンドバークという人物の伝記をむさぼり読んだ。

 

1958年11月に第3次南極観測隊が出発して、翌年の1959年1月には、第2次観測隊が南極基地に不憫にも残してきた、カラフト犬のタローとジローが未だ生きていたという劇的な対面があった。

 

実はこの第3次南極観測時の「宗谷」には医師長として小生の兄(外科医)も乗っていた。今でも、兄とタローとジローが一緒に写した写真がなぜか小生の家のピアノの上に飾ってある。その年の夏休みに南極から芦屋のうちに帰ってきた兄から、「宗谷」の内部の逸話や、松本船長、永田武越冬隊長のすばらしい指揮ぶりなどを色々聞かされた。船長でも研究者でも医者でも、腕に優れた技術を持つと、こういう面白い経験をするチャンスに恵まれるのだな、と羨望したことを覚えている。小生のまさに大学受験勉強中(高校3年生)の時代のことである。いい刺激を受けたと思う。

 

そういうわけで、今回、「宗谷」の船内をつぶさに見学して非常に感慨深かった。見学に約2時間はかけただろうか。とくに兄が活躍したであろう“治療室(dispensary)” には興味があった。兄は船員の盲腸の手術をしたという話であったが、この部屋の説明パネルには「南極までの航海において、船内の病院として機能したのが治療室です。南極観測当時、虫垂炎程度の手術であれば、ここで行われました」と書かれてあった。当時の宗谷の船内は乗務員も観測隊員も現在と違って男性のみの構成なので、長い南極と本土との往復航海の間には、フラストレーションがたまって、よく乗船員同士の殴り合いのけんかが始まったと言うことであった。それで血を見て医務室に駆け込んでくる。その傷を兄が治療する。またそのいざこざを見事に仲裁するのが、いつも肝っ玉の据わった松本船長や永田隊長と言うことであった。

 

こども達にとって、50年前のこういう南極という<未知の世界へのあこがれ>が、現在では、宇宙ということになるのだろうか。しかし、「日本の科学者はスペースシャトルの中で一体何をするつもりなのか」に関する情報が、以前の南極観測隊の時と同じように、こども達にはあまり明確に開示されていないように思われる。膨大な国家予算を使っているのだから、科学者はもっともっと宇宙開発の意義を国民に説明するべきであると思う。もう、ロケットの打ち上げに成功した、宇宙遊泳に成功した、だけの冒険の時代では全く無かろう。

 

(森敏)

秘密

トラックバックURL
→http://moribin.blog114.fc2.com/tb.php/235-499be67b