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2019-01-24 07:15 | カテゴリ:未分類

プレゼンテーション1 
図1.願法:燕尾
   
   
       漢字の筆文字でせわしく書かれており数カ所訂正が入っている「書」に「顔真卿」と書かれているポスターが、年末から東京の各所に長い間掲げられていた。小生は「書」にはほとんど興味がないので、中国で高名な人物なのかなとは思っていたが、わざわざ国立博物館にいく気はしなかった。

   

ところが、全くひょんなことからこの展示会の招待状が手に入った。121日は月曜日なので上野界隈の官営建物は全部休館日なのだが、この日は特別に某企業が主催する内覧会ということで、散歩を兼ねて、快晴の日和でもあったので、のこのこと国立博物館に出かけた。その封筒を見せて国立博物館の平成館に入れた。門の外で数人の若い女性の中国人観光客が「我々はなぜ入れないのか」と押し問答していた。この日は通常は休館日だということを彼らは知らないのだろう。 (しかし、 後で家に帰ってネットで検索して分かったのだが、この展覧会は中国人にとっては垂涎の展覧会なのだそうだ。どうりで、いつになく会場の警備の雰囲気が厳しいと思ったことだ。)

   

見学していて分かったのだが、このポスターに描かれている「書」の内容は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」と言って、中国歴代の支配者が激賞しているとてつもなく有名な顔真卿の「書」の一部だったのだ。この書は、現在は多分蒋介石が持ち込んだのだろう、台湾の故宮に保存されていて、大陸の中国人は目に触れることができないものなのだそうである。「我々中国人が見られないものが、なぜ日本で開催されているのだ!」という観光客や在留中国人の言い分もあるらしい。

   

確かに、1番目の会場の一番最後のコーナーでやっとお目見えする「祭姪文稿」(758年)の心情あふるる内容は「書」を目でおいかけていきながら音声ガイドの説明を聞いていると、非常に迫力があった。玄宗皇帝と楊貴妃で有名な唐時代の安禄山の乱で、顔真卿は孤立に耐えて地方で自分の城を守ったが、他の城にいる兄の顔杲卿とその息子の願秀明は援軍が来なくて殺された。目の前に展示されているものは、その二人を哀惜する、顔真卿が憤激に耐えながら急いで書いた「書」なので、文字の乱れや訂正箇所がそのまま反映している貴重な「原本」なのだそうである。どおりで「なんでこんな荒っぽい書をポスターに使っているのだろう?」という疑問が払しょくされた。写真を撮ってはいけないので、その会場での雰囲気は伝えられない。この書の全文は国立博物館のホームページで見られる。

    

12時から16時まで、我ながら驚くべき忍耐力で鑑賞した。途中で腰痛になりかけて、危機を感じたので、思わず椅子にへたり込んだ。2会場に分かれていて、第1会場の顔真卿のコーナーに行く前に、近くのおばちゃん連中も「やっと顔真卿まで来た、私くたびれちゃった、私トイレに行きたくなっちゃった、でも頑張ろうかな」といって自分で励ましていた。書道などの習いごとをしているご婦人たちと見た。第2会場の後半部にある日本への中国の漢字の伝承者である空海や小野道風などのコーナーでは、集中力に限界が来て、流して観てしまった。

  

数多い作品を見ながら、一点われながら驚いたことがある。それはいろんな書体の変遷を観賞しているときに、たぶん全部で千文字ぐらいあろうかと思われる「故大徳院法師碑」という縦横(2mx4m)ぐらいの碑文に向かった途端、その間10秒ぐらいだと思うが、小生の名前である「敏」という文字が目に飛び込んできたのである。それはまさしく飛び込んできた、という瞬時のできごとであった。最近眼科検診で少し白内障気味だと宣言されていた。そのせいか、意識しないと周りをきちんと見ていない気がしているのだが、今回は我ながら自分自身のパターン認識のすごさに驚いた。昔、湯川秀樹がどこかの雑誌の対談で「人間は100万人の群衆の映像の中にでも、ひとりの知人を瞬時に同定できるのはどうしてだろう?」と言っていたのを思い出した(周知のごとく、いまではAIがそれを超スピードでやり遂げる)。そこでそのあとの2-3の碑文などでは意識的に自分の名前を探したのだが、全く見いだせなかった。敏の文字の一角である「母」という文をどこかの碑文で見出したのみであった。それ以降はあきらめた。焦点を合わせながら意識してみるとだめなようで、漫然と見ることが必要なようである。

  

顔真卿流派の楷書(「顔法」というらしい)の特徴の一つとして、筆使いの書き始めのふくらみが、かいこ(蚕)の頭に似ているので「蚕頭」という手法があって、もう一つの特徴として、例えば「之」という字のしんにゅうの下に伸びる払いのところで、ツバメの尾のように二股に割れるように伸ばす「燕尾」という筆法があるのだそうである。そのように見ていくと、なんと、之 人 入 大 及 夫 尺 丈 文 八 父 とすべてみごとに燕尾である。知らなかったなー。いったいどういう筆使いなんだろう?(本文最初の図1です。パワーポイントで苦労して作図してみました。筆ペンで試みてみたが絶対にうまくいかない。)

   

  素人目にもわかりやすかったのは、当代の顔真卿もその力量を高く評価していた「懐素」という僧侶の書いた自叙帖(726年)というのがあった。これは酒に酔って自由奔放に書いた草書(?)のものだそうで、まさに文字が実にまろやかに踊り狂っている芸術品である。ここまで簡略化するかね!という代物であるが、楷書に翻訳しているものと比較して見ると、なるほどね! と感嘆するものである。いつかこのブログでも紹介したことがある川口雪蓬の書と同じく、読んでいると自分も酔っぱらっているかの如く体が躍動する感じがしたのだ。

  

  というわけで、今まで全く興味をひかなかった書の歴史が少しは理解できたので、今後は「日展」も「書」のコーナーをパスしないで鑑賞したいと思った。実に遅まきながら。

 
  
(森敏)
 
付記:顔真卿の年譜の最後は、
 
785年 77歳で龍興寺で首を絞められて殺された

とある。

顔真卿は主君には絶対服従の生来頑固で融通が利かない忠臣であったのだが、権謀術数の宮廷内での策謀に弱かったようである。だが、
逆に、それ故に「願法」という美しい「楷書体」を創作し得たのだ、と勝手に解釈した。
秘密

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