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2019-03-25 06:50 | カテゴリ:未分類

 
 
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図1.タンポポの双頭の帯化茎
 
 
 
 

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図2.タンポポの双頭の帯化茎
    
   
東大農学部南側の塀の石垣と歩道との境界は、石垣が太陽を反射して、温められるためか、いつもタンポポの開花が早い。栄養がないために小さな一輪のタンポポが数株付近のどこよりも早く咲くが、それが今年は3月10日であった。同じ日に東大農学部内圃場のシロバナタンポポも咲いていた。昨年は両者とも一日遅れの3月11日であった
http://moribin.blog114.fc2.com/blog-entry-2233.html)。

    

  郊外のタンポポが群生する定点観測地点にさる2月5日に出かけたのだが、真冬なのに、ぱらぱらと今年は実に不規則にタンポポが咲いていた。時々訪れる暖かい日に、今年は例年よりも狂い咲きする株が多いように思われた。しかし帯化(たいか)株は全く見いだせなかった。

 

  3月22日に再度現地に出かけたら、2株の双頭のタンポポを互いに1メートルも離れていない近傍に見つけた(図1、図2)。おそらく同じ変異親株から飛散した種子の発芽した帯化株と思われた。今年も今後全面的に帯化株が見出せれば、この地の帯化株発生の主要因が確定しそうです。

 

  今年も、これから5月上旬まで観察を続けるつもりです。

 

  毎年お願いしていることですが、WINEPブログの読者には、家の近傍付近の空き地などでタンポポの帯化株を見つけたら、その写真などを

 

winep@bird.ocn.ne.jp

 

あてに添付書類でご連絡いただければ大変ありがたいです。

    

(森敏)
追記:その後、3月26日には東大農学部圃場で一株にすでに8本の花茎が立ち上がっているタンポポの1株があった。その花茎のうち3本が双頭の帯化茎であることを見つけた。(図3)
 
 
3本の帯化茎ン1 
図3.左の3つが双頭の帯化茎。左から3つ目のものはまだ完全に花が開いていないが、茎が2本くっついている(写真では花に隠れて見えないが)ことからも双頭であることは間違いない。

2019-03-20 07:45 | カテゴリ:未分類

  駒場(東大教養学部)の同窓会館での同窓会のあと、皆と別れて一人で、近くにある日本農学の原点ともいうべき 「ケルネル水田」 を40年ぶりに訪れてみた(1)。ここは都会のど真ん中にある水田である。その由来は、そこに建てられた標識によれば以下のとおりである(2、図3)。筑波大学付属駒場中学校、高等学校の生徒たちは、この水田を用いた田植え、水管理、稲刈り、脱穀、精米までのすばらしい体験実習をしていることと思う。






 
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図1.都心に珍しい本格的な水田  上流水口(みなくち)からの眺め。


 

    
 
 
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図2。左は「ケルネル田圃」の説明文(以下に転載しました)。
右は農作業の手順を絵でわかりやすく示している。

 
ケルネル田圃

ケルネル水田は、旧駒場農学校の実習田です。駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎を置く欧米農法取り入れるために、農業指導者を養成する学校として明治11年に設置されました。

   
 札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統の農学が取り入れられました。
  

 ドイツ人オスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、日本農業の特質を配慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、肥料などの研究と教育を行い、多くの成果を収めました。
  

 ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。
  

 なお、駒場農学校は、のちに東京農林学校となり、東京帝国大農科大学などを経て筑波大学に継承されました。
   

 現在、ケルネル田圃では筑波大学付属駒場中学校、高等学校により教育水田として生徒が実習しています。

 
   
  
 
 
 
 
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 図3.水田の周辺に建てられている掲示板と碑文。
左:目黒区緑の散歩道。駒場で花開いた近代農学  のタイトル
右:水田の碑
 
  
 
 
 

  このオスカー・ケルネル先生の像は、古くから当初は確か小生も長く在籍した東大農学部2号館の正面玄関内にあったと思うが(不遜にも今となっては記憶が定かでは無いのだが)、いつの間にか3号館の正面玄関内に運ばれて、今はその片隅に追いやられて、狭い思いで立っている(4)。この胸像は建物の中にずっといたので、東京大学の中央の広報関係者もあまり知らないらしく、最近大学から送られてきた「学内広報」の東大の胸像群の写真には載せられていない。農学部正門に向かって入り口を入って左側にある上野英三郎先生と忠犬ハチ公が戯れている像の方が今では有名である。



オスカー・ケルネル先生の像1 
図4.オスカー・ケルネル先生の像。 文京区向ヶ丘弥生の東大農学部3号館の玄関の中に胸像が建っている。
   
   
 

 (森敏)

追記1:ケルネル先生以降の東大農芸化学科の長い歴史は以下のホームページに簡潔に記載されています。

http://www.bt.a.u-tokyo.ac.jp/science/history/

追記2.筑波大学付属駒場中学・高校校長の林久喜さんは筑波大学教授でもあり、

中学校の総合学習の時間で実施される水田学習の教育効果
林久喜 
日本農業教育学会誌   (別) 67-68   2017年10月

という論文を発表している。

この学校は2019年の東京大学に全国で2番目の入学数(113名、現役83人)ということだ。水田での体験学習の成果もあるのかもしれない。
2019-03-07 07:45 | カテゴリ:未分類

ヨモギに似た植物は幾種類もあるので、同定がむつかしいのだが、以下の植物は葉の特徴から一応ヒメムカシヨモギと同定した(図1)。2016年の秋に抽苔して多数の花をつけていた(図2)。これをオートラジオグラフに撮ると、全部ではないが結構濃くうつる花器があることがわかる(図3、図4)。このように花器が濃くうつるものは不稔ではなく、種子がきちんと充実したものである。分析すると花器が結構放射能が高いことがわかる(表1は花器全体の平均値)。確実に放射能は生殖器に移行して次世代に取り込まれているのである。
      
  こういう写真(図3、図4)を展示場や学界で見せると、根はどうなっているのか? という質問をよく受ける。いつも述べているように、根は、土がついていて、それを完全に洗い落とすのが至難のわざなので、それを撮像すればいつもむちゃくちゃに強く感光する(つまり、根自身の放射能を正確に測ることは困難である(根にこびりついた土の放射能の寄与が大きすぎる :アーテイファクト)。その上に実際上根付きで植物を土から掘り起こす作業は、いくら丁寧にやっても必然的に土ぼこりを巻き起こすので、地上部も土で汚染しかねない。だから、あえて根元から下は現場で切り落としてサンプリングしている場合が多いのである。これまでもいくつかそういう根付きの放射線像を示してきたが、根の強い放射能のイメージがあったほうが見るほうには驚きがあるという意見もあるので、最近は幼植物は、できる限り根付きでサンプリングしている。





ヒトツバヨモギ 
 
 図1.ヒメムカシヨモギ



 
 

ヒトツバヨモギ (2) 
 
図2.図1のオートラジオグラフ。左と右下の濃い点は外部被ばくである。たぶん土埃と思われる。 花器の内部被ばくが顕著である。左の株は右の株と近接した10センチ離れたところの株である。根が張っている土壌の部位によって、放射能汚染の度合いが極端に異なるためである。
 


ヒトツバヨモギ(ネガ) 
図3. 図2のネガテイブ画像
 
 
 
表1.ヒメムカシヨモギの部位別放射能(図1の右側の株について)

ヒメムカシヨモギの放射能1  
 
 
 
  
  

(森敏)
2019-01-24 07:15 | カテゴリ:未分類

プレゼンテーション1 
図1.願法:燕尾
   
   
       漢字の筆文字でせわしく書かれており数カ所訂正が入っている「書」に「顔真卿」と書かれているポスターが、年末から東京の各所に長い間掲げられていた。小生は「書」にはほとんど興味がないので、中国で高名な人物なのかなとは思っていたが、わざわざ国立博物館にいく気はしなかった。

   

ところが、全くひょんなことからこの展示会の招待状が手に入った。121日は月曜日なので上野界隈の官営建物は全部休館日なのだが、この日は特別に某企業が主催する内覧会ということで、散歩を兼ねて、快晴の日和でもあったので、のこのこと国立博物館に出かけた。その封筒を見せて国立博物館の平成館に入れた。門の外で数人の若い女性の中国人観光客が「我々はなぜ入れないのか」と押し問答していた。この日は通常は休館日だということを彼らは知らないのだろう。 (しかし、 後で家に帰ってネットで検索して分かったのだが、この展覧会は中国人にとっては垂涎の展覧会なのだそうだ。どうりで、いつになく会場の警備の雰囲気が厳しいと思ったことだ。)

   

見学していて分かったのだが、このポスターに描かれている「書」の内容は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」と言って、中国歴代の支配者が激賞しているとてつもなく有名な顔真卿の「書」の一部だったのだ。この書は、現在は多分蒋介石が持ち込んだのだろう、台湾の故宮に保存されていて、大陸の中国人は目に触れることができないものなのだそうである。「我々中国人が見られないものが、なぜ日本で開催されているのだ!」という観光客や在留中国人の言い分もあるらしい。

   

確かに、1番目の会場の一番最後のコーナーでやっとお目見えする「祭姪文稿」(758年)の心情あふるる内容は「書」を目でおいかけていきながら音声ガイドの説明を聞いていると、非常に迫力があった。玄宗皇帝と楊貴妃で有名な唐時代の安禄山の乱で、顔真卿は孤立に耐えて地方で自分の城を守ったが、他の城にいる兄の顔杲卿とその息子の願秀明は援軍が来なくて殺された。目の前に展示されているものは、その二人を哀惜する、顔真卿が憤激に耐えながら急いで書いた「書」なので、文字の乱れや訂正箇所がそのまま反映している貴重な「原本」なのだそうである。どおりで「なんでこんな荒っぽい書をポスターに使っているのだろう?」という疑問が払しょくされた。写真を撮ってはいけないので、その会場での雰囲気は伝えられない。この書の全文は国立博物館のホームページで見られる。

    

12時から16時まで、我ながら驚くべき忍耐力で鑑賞した。途中で腰痛になりかけて、危機を感じたので、思わず椅子にへたり込んだ。2会場に分かれていて、第1会場の顔真卿のコーナーに行く前に、近くのおばちゃん連中も「やっと顔真卿まで来た、私くたびれちゃった、私トイレに行きたくなっちゃった、でも頑張ろうかな」といって自分で励ましていた。書道などの習いごとをしているご婦人たちと見た。第2会場の後半部にある日本への中国の漢字の伝承者である空海や小野道風などのコーナーでは、集中力に限界が来て、流して観てしまった。

  

数多い作品を見ながら、一点われながら驚いたことがある。それはいろんな書体の変遷を観賞しているときに、たぶん全部で千文字ぐらいあろうかと思われる「故大徳院法師碑」という縦横(2mx4m)ぐらいの碑文に向かった途端、その間10秒ぐらいだと思うが、小生の名前である「敏」という文字が目に飛び込んできたのである。それはまさしく飛び込んできた、という瞬時のできごとであった。最近眼科検診で少し白内障気味だと宣言されていた。そのせいか、意識しないと周りをきちんと見ていない気がしているのだが、今回は我ながら自分自身のパターン認識のすごさに驚いた。昔、湯川秀樹がどこかの雑誌の対談で「人間は100万人の群衆の映像の中にでも、ひとりの知人を瞬時に同定できるのはどうしてだろう?」と言っていたのを思い出した(周知のごとく、いまではAIがそれを超スピードでやり遂げる)。そこでそのあとの2-3の碑文などでは意識的に自分の名前を探したのだが、全く見いだせなかった。敏の文字の一角である「母」という文をどこかの碑文で見出したのみであった。それ以降はあきらめた。焦点を合わせながら意識してみるとだめなようで、漫然と見ることが必要なようである。

  

顔真卿流派の楷書(「顔法」というらしい)の特徴の一つとして、筆使いの書き始めのふくらみが、かいこ(蚕)の頭に似ているので「蚕頭」という手法があって、もう一つの特徴として、例えば「之」という字のしんにゅうの下に伸びる払いのところで、ツバメの尾のように二股に割れるように伸ばす「燕尾」という筆法があるのだそうである。そのように見ていくと、なんと、之 人 入 大 及 夫 尺 丈 文 八 父 とすべてみごとに燕尾である。知らなかったなー。いったいどういう筆使いなんだろう?(本文最初の図1です。パワーポイントで苦労して作図してみました。筆ペンで試みてみたが絶対にうまくいかない。)

   

  素人目にもわかりやすかったのは、当代の顔真卿もその力量を高く評価していた「懐素」という僧侶の書いた自叙帖(726年)というのがあった。これは酒に酔って自由奔放に書いた草書(?)のものだそうで、まさに文字が実にまろやかに踊り狂っている芸術品である。ここまで簡略化するかね!という代物であるが、楷書に翻訳しているものと比較して見ると、なるほどね! と感嘆するものである。いつかこのブログでも紹介したことがある川口雪蓬の書と同じく、読んでいると自分も酔っぱらっているかの如く体が躍動する感じがしたのだ。

  

  というわけで、今まで全く興味をひかなかった書の歴史が少しは理解できたので、今後は「日展」も「書」のコーナーをパスしないで鑑賞したいと思った。実に遅まきながら。

 
  
(森敏)
 
付記:顔真卿の年譜の最後は、
 
785年 77歳で龍興寺で首を絞められて殺された

とある。

顔真卿は主君には絶対服従の生来頑固で融通が利かない忠臣であったのだが、権謀術数の宮廷内での策謀に弱かったようである。だが、
逆に、それ故に「願法」という美しい「楷書体」を創作し得たのだ、と勝手に解釈した。
2018-12-07 11:33 | カテゴリ:未分類

上野の国立博物館の東洋館の一室で中国の斉白石という画家の展示会が開催されている。ありがたいことに70歳以上は無料である。途中から作品の入れ替えがあるということなので期間をおいて2回見学した。掛け軸では、花・木・野菜や池に住む水中生物の実に闊達な農村風景画があった。日本で有名な仙厓和尚の漫画的なユーモラスな筆の人物のタッチの作品がいくつかあった。それでそういう絵ばかり描くのかなと思って順路に沿ってみていったら、ガラス箱の展示に何種類かの昆虫の細密画があった。小生がいつも気にしているジョロウグモも描かれていたので興味を持って覗き込んだ。

   

小さな昆虫のいずれも実物大!での超細密描写なので超絶技巧だ。いったいどんな筆と墨で、こんな細密画が書けるのか想像を絶する。昆虫は全部日本でもおなじみの農村の生き物たちだ。それを原寸大に(!)実に精密に描いている。赤トンボの翅やセミの翅の骨組みなど驚異的な透明感だ。日本人にも白米にお経を百文字書く人物もいるということだから、何も珍しいことではないのかもしれないが、小生には実に珍しくてまじまじと見入ってしまった。

  

写真を撮ってもよさそうだったので、ショーケースのガラスにカメラをくっつけて鑑賞しながら一つずつ部分拡大写真を撮っていたら、係員が来て、ガラスにカメラを置かないでください、と注意された。

 

帰りに1階の出口の土産物店を子細に眺めていたら、なんと斉白石の細密画だけを集めたB4版ぐらいの大きさのハードカバーの写真集がビニールで厳封されて販売されていた。だから中身が見られなかったのだが、超細密画を特別にとらえる鑑賞眼もあるのだなと、なんとなく納得した。

  

以下に示すのは小生が撮影した斉白石の昆虫の超細密画の画像です。著作権侵害にはならないでしょう。

     

斉白石は1864年(明治維新前!)に生まれて、1957年に死亡している。その間1930年に中国では内戦が始まり19494月に中国共産党が樹立している。斉白石は毛沢東や周恩来に高く評価されていたらしいが、幸いなことに約10年続いて1976年に終了した文化大革命の文化芸術に対する中国全土的な紅衛兵による破壊活動を経験していない。真にハッピーだったなあ、と思ったことである。93年も生きているので膨大な作品があるはずだけれど、それが全部無事に文化大革命を経過して破壊や廃棄されずに保存されているとはとても思えないのだが。
     

南画なぞとはちょっと異なった、強くは自己主張しない中国を感じた。

    
 
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 晩年の斉白石

   

   
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