2016-10-20 15:58 | カテゴリ:未分類

佐賀高校寮生 
遥かなり十五畷 と記銘されている  旧制佐賀高校生像 佐賀大学本庄キャンパスにて
  
    
        100年の歴史を持つ日本土壌肥料学会が初めて佐賀大学で年次大会を開催した。小生にとって、1960年に大学受験に受かったときに、友人の親戚の経営する武雄温泉の宿にその友人とともに泊まった時以外に佐賀県に降り立ったことがなかったように記憶する。今回の1000人ばかりの学会参加者のどなたに聞いても、「佐賀に来たのは初めてです」という方が多かった。

     

泊まったホテルに観光案内の地図が置いてなかったのにまず驚いた。学会で入手した観光地図を見てみると、佐賀市内図では佐賀城跡公園周辺内外の数箇所のほかには名所旧跡がない。お城の方向にむかっている「唐人通り」というたぶんメインストリートが閉店シャッター街みたいになっていて人通りがほんとうに少ない。タクシーの運転手に聞くと郊外にショッピングモールができて、車でそこに皆さんは買い物に行き、場合によっては土日を過ごすのだそうである。相変わらずの最近の商店街凋落のパターンである。「佐賀名物の食べ物は何ですか?」と聞くと、「サー?」と考え込んで、「有明海がさっぱりだめになって、魚介類が提供できなくなりました。唐津のほうにはイカの刺身がありますが」ということであった。さっぱり観光立県発信の意欲がなさそうだ。

     

小生は最近足腰が弱ってきたので、健康維持のためにホテルから佐賀大学まで約2キロの距離の大通りを歩いて学会会期中3日間往復した。東京に比べて車が少なくてとても空気がさわやかできれいに感じられた。朝夕の人通りも実に閑散としている。初日の小生の学会発表の翌日の午後は日本土壌肥料学会賞受賞者などの講演が延々とあったのだが、会場の冷房が効きすぎて寒い上に、ひざ下からつま先までの足がしびれて「つる」ような感じがしてきたので、エコノミー症候群を恐れて、不謹慎とは思いながら早々に会場を出た。

     

外は暑い日ざしで、観光地図を見ながら、旧佐賀城に向かって歩いた。佐賀城内エリアには、佐賀城本丸歴史館、大隈記念館、徴古館、県立博物館、県立美術館があり、これらを早足で見学した。佐賀城本丸歴史館ではボランテイアの方が、30分でお願いしますとお願いしたのだが、流れるような説明で約1時間にわたって懇切丁寧な江戸時代の藩主鍋島家や長崎の出島に出入りしたシーボルトに関する話を歩きながらしてくれた。

      

別れ際に「ところで唐津の農民作家の山下惣一さんは「佐賀では出る杭は打たれる」とおっしゃっているそうですが、佐賀の県民性についてどう思われますか?」と聞いてみた。少し困った様子だったが、しばらく考えて「そうですね、佐賀の人は、人より先に前に出ずに、少し様子を見てから動き出すところがあるかもしれませんね」という実に慎重な応答だった。

      

次に訪れた「県立美術館」では古賀忠雄氏のすばらしい塑像や、洋画家岡田三郎助の人物画数点を初めてみた。見ていて非常にしっくりきたので、この岡田三郎助をより詳しく知りたいと思った。美術館出口のみやげ物店に佐賀偉人伝シリーズとして、鍋島直正、大隈重信、岡田三郎助、江藤新平,辰野金吾、平山醇左衛門、島義勇、大木喬任、佐野常民、納富介次郎、草葉川、副島種臣などの伝記がずらりと並べられていた。そこで岡田三郎助の伝記(松本誠一著)を購入した(電子書籍でも購入できるようである)。ホテルに帰って読んだら岡田三郎助は藤島武二、竹内栖鳳、横山大観とともに第一回文化勲章を受章しており、主として美人画の権威であることがわかり、これまであまり興味がなかった美人画の見方を多少教わった気がした。

      

佐賀県民が推薦すると思われる上記の人物のうち、小生が知っていた歴史上の人物は大隈重信、江藤新平、大木喬任、辰野金吾のみであり、実に己の不勉強を改めて知らされた。

      

次に、早稲田大学の創始者である大隈重信を記念する「大隈記念館」を訪れた。隣の大隈侯の生家の屋根が葦(よし)で葺き替えられている最中であった。

      

時代は人がつくる

人は学んでつくられる

絶えず学んで、絶えず行動せよ。

      

君たちも必ず失敗することがある。

打ちのめされても落ち込むな。

その失敗こそが大切なんだ。

      

世の中に価値のない人間などいない。

      

施したものに報いを求めるな!

施しを受けた恩を忘れるな!

      

という、大隈侯の生前の言葉が書かれた額縁などがあり、講演の録音が室内に流されていた。これらの言葉は早稲田大学の卒業生には「校是」として常識なんだろうと思われるが、改めて激動の明治維新をたくましく生き抜いてきた大隈侯の実体験からくる言葉と胸に重く受とめることができた。奇しくもこの2階には岡田三郎助が描いた凛とした黒を基調とした「大隈侯婦人像」(90cm x 60cm)が飾られていた。+

       

さてそこで本題に戻るのだが、佐賀県の短い滞在の中で、「小生の中で『なぜ佐賀県は印象が薄いのか』」について、ずっと考えていた。上記の人物たちの中で小生が一番詳しく知っているのは司馬遼太郎が描く江藤新平である。明治維新のフランス民法の立役者である江藤新平は、今ではその詳しい内容は忘れたが、明治政府から下野し、維新改革についていけなかった下級武士の代弁者として佐賀の乱を組織するが、なぜか大久保利通の徹底的な追跡であちこちを敗走したあげく土佐で捕獲されて、無残にも「さらし首の刑」を受けた。一方、大隈重信(総理大臣2)や大木喬任(第一回文部卿)などは、人物育成など文教行政に多大な貢献をした人物として名を成している。
         
  この江藤新平と大隈重信の違いはどこから来たのだろうか。私見では、明治維新改革直後での舵(かじ)取りの危うい明治政府創設期には、江藤新平のような「出る杭(くい)」は、大久保利通にとって、とても厄介で、類似の不満分子の蜂起が全国に髣髴として起こることを警戒して、徹底的に打ちのめさなければならない見せしめの対象であったに違いない。
        
  佐賀県民はこのことを骨の髄まで知っているのかもしれない-このことがすなわち「出る杭になるな」、という県民性に影響したのではないだろうか? などと勝手な妄想をしてみた。(こんな仮説をとなえるとたぶん数多(あまた)の反論がきて、袋叩きに会うに違いないのだが。。。)

              

帰りの佐賀空港では、いまや有明海の希少資源になりつつある「むつごろう」2匹の甘露煮(500円)を2袋、孫のお土産に買った。

           


(森敏)
追記:世界気球大会 が10月28日から11月6日まで佐賀で開催されている。多くのスポンサー企業が付いているようだ。強風で本日(11月1日)は中止だとか。地元では一年かけて準備してきた行事だから成功を祈りたい。「唐人通り」にこの気球関連の事務所があったのを覚えている。
秘密

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