2015-09-29 15:54 | カテゴリ:未分類

    先日、テレビで小澤征爾とドナルド・キーンの対談があった。小澤征爾に関しては昔の彼の若い時代の自伝を読んでいたぐらいであとは週刊誌や新聞からの内容しか知らない。ドナルド・キーンに関しては、時々の新聞ネタでの略歴と随筆しか詳しいことは知る機会がなかった。だから二人が同時に文化勲章を受章したこともこの番組で初めて知った。

     

こういう異分野対談では専門分野での蘊蓄(うんちく)の交錯が興味があるので、テレビ画面に耳をそばだてて聞いた。しかし、なにぶんにもキーンさん自身は完全に日本語の聞き取り(ヒアリング)は理解しているのだが、文法的に正確を期す話し方の訓練ができすぎているためか、日本語の話し方が不自然で、ご本人も限られた時間内での発言に焦っているごようすで、すこし気の毒だった。Wikipediaで検索すると彼は英文著作ばかりでなく多数の日本語の著作を上梓されているのだが、話すことと書くことが全く異なる能力であることを彼を通じてあらためて痛感させられた。我々日本人が、いくら英文論文を書き、原著論文を読み、英文小説を読めても、多少のヒアリングができても、話すのが決してネイテイブのように上達しないのと同じである。小沢さんは一生懸命キーンさんの話のいわんとする神髄を理解しようと努力されていたと思う。

      

小沢さんの発言で印象的だったのは、指揮者にとって当たり前のことだろうが、作曲家によって書かれた譜面の「読解」とそれに対する「独自の解釈」を「直ちに手で表現する」(タクトを振る)ことが瞬時に一体となって連動するように徹底的に訓練されて来たんだということであった。長時間にわたる演奏でも暗譜は普通で、もし譜面を読みながらタクトを振ると、次の演奏者に目を合わせて指示するのがわずかに遅れるので、指揮に迫力がなくなるのだ、と言っていたのが印象的であった。指揮者の訓練というものは、譜面(目)と音(耳)と指揮(手)が三位一体になることである、と。譜面を見ると瞬時に手が動き出すというのは新鮮だった。要するに指揮も「脳が考える過程」をショートカットする条件反射なのである。当たり前のことだが本来「訓練」とか「演習」とかいうものはそういうものだろう。芸術であれ科学であれ[プロ]というのは専門領域で固有の「変換子」(例えば数学でいうフーリエ変換とかラプラス変換とか)を持つということなのである。

      

書斎で著作中のキーンさんの映像に関しては、タイプ打ちが左手は人差し指で、右手は中指でぽつりぽつり打っているので、これには痛く感動した。何故かというと小生自身が全くその通りのタイプの打ち方だからである。論文を書くのには、かならずしもタイプライターを弾丸のように早く打つ必要はないのである。最近日本の作家の自筆の原稿を見る機会がよくあるのだが、ほとんどの作家の原稿には何度も何度も推敲したあとがある。ほとんどの作家は原稿をペンで書き、原稿用紙の中に累々と書き直しの跡がある。三島由紀夫ぐらいだろう、ほとんど原稿に推敲の跡がないのは。文学者があれ作家であれ、あれこれ思考を屈折しながら美文に仕上げるには、その思考の速度に合わせて手書きのようにタイプ打ちできればいいのだということだろう。キーンさんのように「文芸評論」を書く場合は学術論文に近い練りに練った文体なんだろうから、ぽつりぽつりのタイプ打ちがなおさら適切な速度なんだろう。

      

この番組の対談の中心は「オペラ」であったので、その道のファンには興味津々の対談だったのではないかと思う。残念ながら小生はオペラ談義からは蚊帳の外だった。タバコ飲みや酒飲みの先輩には、「オマエみたいに人生で至福を得られる(悪)趣味を持たない人間は、気の毒だ(バカだ)」、とよく言われてきたのだが、オペラを鑑賞して来なかった(実情はそんな趣味に深く入れ込むお金もなかった)人生もまた片手オチなんだとつくづく思った。やんぬるかな。

         
   
(森敏)
秘密

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