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2015-09-03 11:44 | カテゴリ:未分類

  

ゆえあって長野市の「東山魁夷館」、奈良市の「入江泰吉記念奈良市写真美術館」、金澤市の「鈴木大拙館」を訪れた。

 

これらの館の中身の展示物に関しての印象はさておくとして、最初の東山魁夷館を訪れた時は、静謐な水を湛えた人工的な湖庭の印象が強烈だったので、その後に訪れた入江泰吉記念奈良市写真美術館と、鈴木大拙館での水をたたえた水庭の印象が小生には残念ながら亜流に見えた。

 

調べてみると東山魁夷館と鈴木大拙館は谷口吉正氏の設計によるものであり、入江泰吉記念奈良市写真美術館は黒川紀章氏の設計によるものであった。小生の目には3者はほとんどコンクリート、アルミ鋼板、耐圧ガラス、水などの資材と共に、モチーフも同じ(あえて言葉で語れば「静謐」あるいは「瞑想」)である様に思われた。

 

しかしこれは小生が牽強付会的に三者の類似点を空間から切り取ったからに過ぎない。

 

凡そ美意識というものは徹底的に主観的なものなので(またそうあるべきなので)、あれとこれが似ているからと言っても、それは鑑賞者が深読みして似ている点を挙げつらっているに過ぎない。

 

  小生の常日頃の感覚では、モチーフや様々な技法を含めて現代絵画の99.9%は過去の絵画からの模倣で成り立っている。だから、絵画鑑賞ではその絵の0.1%のオリジナルな点を見出して、その発見の喜びで、満足すべきだと思っている。1000点見れば 0.1%x1000=1 で1枚の独創的な絵を見たことになる。(そんな「量」から「質」への転換はありえない! という叱責がただちに来そうだが)

 

1957年、小生が中学生の時に芦屋市の浜の公園で「第一回具体展」が開かれた。吉原治良が主導する「アンデパンダン展」と頭で記銘している。先日「軽井沢アートミュージアム」という建物に飛び込んだら、なんとこの流れの作品が展示されていた。日本で始まったこの初期のころからの参加者である7名の抽象絵画が展示されていた。非常に懐かしかった。この時の日本で初の試みから今に至るまで、私見ではあまり日本の抽象絵画は変わっていないなと思う。技法や発想が出尽くしているのではないかと全くの素人ですが僭越ながら思う。
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 開催中の「軽井沢アートミュージアム」のポスター。軽井沢駅にて。斜めの線は電線の影。偶然だがたくまざるアクセントになっている。右の絵は吉原治良により繰り返し試みられてきた「円」の一つ。
  

デザインと絵画はまた似て非なるものであるかもしれない。近年コンピューターグラフィックという革新的な新しい技法が加わったにしても、みんながどの箇所も過去や現在の誰かの作品と似ていないと思うデザインなんてありえないだろう。日本国民が誰でも同意する象徴的なシンボルは「富士山」と「サクラ」に決まっている。「見ていて気持ちが和む」のがエンブレムのモチーフなのかもしれない。

 

「芸術は破壊だ!」と叫んで、そういう安心や安定の象徴である「山」ばかり書く日本画を「八の字芸術」と揶揄して忌み嫌って海外逃亡したのが抽象絵画の岡本太郎である。しかし大阪万博の時に彼の創造した巨大な「太陽の塔」も当時の違和感はどこえやら、今や「太陽の塔」は人々の胸には郷愁をそそる安心の象徴である。未来永劫にわたって不安を掻きたてる芸術もまたあり得ない。渋谷駅の岡本太郎の長大な壁画『明日の神話』は幸いいまだに小生の胸に風化してはいないが。

 

だから、どんな奇妙奇天烈なエンブレムでも、あえて採用すれば、オリンピックの後、時間の経過とともに人々の心の中で風化して(なじんで)郷愁をそそるエンブレムに生まれ変わることは間違いないだろう。シンボルとして富士山や桜を選ばないことを祈りたい。
       
(森敏)
追記:岡本太郎の「太陽の塔」も一種の模倣であることは、以前に述べたことがある。


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