2008-07-18 03:56 | カテゴリ:未分類

物理学者戸塚洋二氏はなぜ植物に感動したのだろうか

 

先日ニュートリノ天文学の戸塚洋二氏が亡くなった。その直前に出版された戸塚洋二と立花隆との対談

 

がん宣言「余命19ヶ月」の記録 (文藝春秋 8月号)

 

を読んだ。この150頁めに戸塚氏が神岡鉱山のカミオカンデで研究をしているときに、近場の山を歩いたら、季節の変わり目があって、植物の葉っぱや花のすばらしさに感動した由が語られている。特に葉っぱの多様性に興味を持ったようである。

 

これを読んで、物理学者が植物に癒されるのはなぜか、とちょっと考えた。

 

戸塚氏は、自然界の法則性を解明するためには、<まずデータベースを構築すること> という研究の方法論が骨の髄までしみこんでいたようである。つまりそのデータベースを数理解析すれば中からなにかが見えてくる、それが面白いんだ、ということである。この考えかたは研究者としての王道であろう。

 

博物学は枚挙学であり、かつ記載(description)の学問である。すなわち現象学そのものである。膨大な多様な情報をデータベース化して分類して『種』という概念を博物学は構築してきたのである。それが今日、分子生物学の発達により個々の『種』の膨大なゲノム情報(すなわちゲノム・データベース)から、『種』と『種』の間の相互関係に関して、従来の古典的な博物学よりもはるかに正確な系統樹が描かれようとしている。

 

上記の対談で戸塚氏は「葉っぱの多様性のデータベースがないのはおかしい」と云っている。そこから植物学上なにかが見えてくるはずだと思ってのことであろう。

 

我々が見ている一本の植物の葉っぱなどの形態や色の多様性は遺伝子が発現してくるときに受けた環境要因による摂動(ゆらぎ)の結果である。あるいは自然に起こる遺伝子修復過程でのエラーによる変異の結果によるものである(このことに関してはWINEPブログの「カーボンナノチューブで中皮腫とは」で詳しく述べておいた)。常時降り注いでいる宇宙線によって、遺伝子のわずかに一塩基が変異しても、表現型としては思いもよらぬ姿となって現れてくる場合があるのは、今日の遺伝子を扱う生物学者の常識である。またウイルスが飛び込んだりした場合は葉の形状ばかりでなく葉の至る所に黄色い斑点や、局所的なクロロシス(黄白化症であるが鉄欠乏によるものではない)が観察される。

 

それにしても、戸塚氏はどうして植物の葉の多様性に惹かれたのであろうか。たぶん宇宙から飛んでくるニュートリノなどの量子線の観測作業やそれを観測するための大がかりな装置の組み立て作業があまりにも単調(monotonous)なルーテイン・ワークだったのではなかろうか。それに比べて、年間を通じて微小な変化が目に見えて形態や色の変化として観察される、山川の草木の葉や花に癒されたのだろうと思料する。

 

人間には身の回りに“わずかな変化”を感ずることが出来る環境がいつも必要なのであろう。その環境としては、植物の一年周期での成長に伴う 巧まざる”揺らぎ”が最も相応しいのではないだろうか。

 

合掌

 

(森敏)

 

 

 

 

秘密

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