2013-12-28 11:31 | カテゴリ:未分類

型破り、灘中・高の「伝説の国語教師」しのぶ会

科書を使わない型破りな授業で知られ、9月に101歳で亡くなった私立灘中学・高校(神戸市東灘区)の元国語教師・橋本武さんをしのぶ会が21日、兵庫県西宮市のホテルで開かれた。

 

 各界で活躍する教え子ら約270人が集まり、恩師の思い出話に花を咲かせた。

 橋本さんは、中勘助の自伝的小説「銀の(さじ)」を3年間かけて読み込む授業が評判を呼んだ。1984年までの半世紀にわたり、教壇に立ち続け、「伝説の国語教師」とも呼ばれた。

 浜田純一・東大総長は「肌で感じ、体で学ぶことを教わり、人生が豊かになった」と感謝の言葉を述べた。黒岩祐治・神奈川県知事は「言葉にこだわり、とらわれない発想ができる自分の原点は『銀の匙』の授業にあった。いつも当時のノートと本を本棚に置いている」と語り、全員で献杯した。

201312221414分 読売新聞)

  

小生は1957年から3年間灘高に在学していたのだが、学年が違っていたためなのか、この橋本武先生の名は全く記憶にない。実は今ではすべての先生の名前を忘却してしまった。多分高校3年間徹底的な「教師によるいじめ」に会った嫌な思い出ばかりのこの高校を記憶から消してしまいたい深層心理のせいだと思う。  
   

とりわけ、東大国文学科を首席で卒業して来たと称していた某教師(名前を思い出さない)が小生が高一に芦屋市の精道中学校から入学したときから、小生に対する態度がひどかった(その中身はどこかで書いたことがある。おかげで小生は国語をやる気がすっかり失せてしまった)。この教師は生徒を端(はな)から馬鹿にした教育をしていた。1年の途中で突然大阪の北野高校に出て行った。本人からも校長からも理由は説明されなかった。    
    
  そのあとしばらくは、他の学年担当のいかにも老練なはげ頭の某教師(名前を思い出さない)が我々の学年も兼務していたが、学年が違うためか本腰を入れている気が感じられなかった。「何故それが正解だと云えるのですか?」と質問すると「大人の『常識』ではそうなんだよ、授業が進まないから君はだまっとれよ」というわけのわからない答えがいつも返ってきた。男女共学でないので、この高校へ入学以来、男女の感情の機微がわからなくなってきており、自分には大人の『常識』がないことだけはしっかりと頭に刷り込まれた。この教師はその後、校長になったと聞いている。 いつも、芥川賞を受賞した「遠藤周作」が教え子であり、「在学中は彼は国語で誤字脱字の劣等生だったが、彼は本学出身者である」、とこれまたわけのわからない自慢をしていた。
            

しばらくして京都大学の国文学科出身の大学出たての気鋭と紹介された某教師(名前を思い出さない)が赴任してきた。この教師は実力があるのだろうが、見るからにおどおどして、自信なさげな授業をするので、いつもいじのわるい生徒達に机をたたいて馬鹿にされて授業が進まず、時々女々しい悔し涙を浮かべていた。結局卒業までずるずると彼が国語を担当した。    
         
  そんななか、なぜか1人のいかにも枯れた感じの教師(名前は忘れた)が和歌・俳句・短歌専属の担当で週に一度ぐらい「わび」や「さび」の授業をしてくれていた。この世界は高踏すぎて、当時はさっぱり理解できなかったのだが、この授業はその後の我が人生では一番役に立っているのかなと思う。     
          
    というわけで小生には国語の授業がいったいどこに向かって進んでいるのか皆目わからなかった。高3になって当時旺文社がやっていた全国テストなどでは小生の国語の平均の成績は全国平均以下で、灘高のこの学年平均も全国平均レベルだったと記憶している。英・数はかなり上位につけていたのだが。結局この学年では教師がコロコロ変わって、国語教育の戦略目標を立てようがなかったのだと思う。     
        

その後大学に入って10年後の1969年に学園闘争があったが、教養学部(駒場)の学内で、内ゲバの負傷者を救護するために、担架を担いでいる「教員救護班」みたいな腕章を着けている教師がかけまわって居たのだが、それがなんと、かつての灘高の教師だった人物であったのには驚いた。この教師は教育なんぞにはテンから興味が無くて、ひたすら学問をしたかったのだろうと、今だから納得できる。生徒は半ば犠牲者だったのだ。 
             

上記の新聞記事にあるように、浜田純一・東大総長も黒岩祐治・神奈川県知事も橋本武さんの名授業を聴いて本当に恵まれていたと思う。実は橋本さんの授業に使われた中勘助の「銀の匙」は、小生が精道中学校の時の国語の教師であった広井大先生の下宿で毎週日曜日の数人での読書会で、数回にわたってお互いに批評しながら読んだことがある。小生にとっての国語力の生長は広井先生の薫陶で終わりで、それ以上のモノは灘高では得られなかったと思う。余談ですが(すでにどこかで述べたことがありますが)、今をときめく作家の「村上春樹」も精道中学校で広井先生の授業を受けています。天才的な感性についてはさておき、文法(論理学)だけは広井先生にしっかりとたたき込まれたはずです。

 
(森敏)


秘密

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