2013-01-24 04:20 | カテゴリ:未分類

   u-tubeでベラルーシの放射線障害患者の生々しい映像を見た。詳しい説明がなかったが、彼は過去においてチェリノブイリ原子炉の除染活動をしていたとのことである。

 

ベッドに寝ている彼は看護士の呼びかけに対して、その呼びかけの内容は理解しているのだが、それに対して応答している「ことば」が、全くちぐはぐな、関係ない言葉を乱発している。自らの「発語」が思考内容を全く表現できていない。発語のときの言語中枢が壊れているらしい。それが異常であることに本人も気が付いているようだ。こんなことがあり得るのか!? と、小生には実に衝撃的だった。

 

MRiで彼の脳の画像を見ると、脳全体が萎縮している。こんなことが放射線障害で起こるのだ!! 映像の説明では、障害が放射線の内部被ばくによるのか、外部被ばくによるのか良くわからなかったのだが、福島での廃炉作業に従事している人たちは、強力な被ばくをしているので、実に要注意だと思った。

 

脳神経に対する放射線障害は、寡聞にして原発暴発後にもかかわらず、現在の日本ではまだ充分に問題にされていないように思う。

 

一方、低線量放射能汚染地域住民の慢性被ばくの脳神経系に対する障害に関してはこのWINEPブログいつも紹介している

 

Chernobyl Consequences of the Catastrophe for

People and the Environment  (p104-116)

 

に実に詳しく述べられている。放射線被曝関係者ばかりでなく日本人全体が、この膨大なる調査データを用いた厳然たる事実に対して目をつぶらずに、是非読んでもらいたいと思う。誰かが全訳して紹介すべきだろう(すでにしている方がおられるのかもしれないが)。小生は医者でないので、これまで医学的なことに関しては口をつむってきた。日本の脳神経科学者は、この点に関してもっと社会的発言をすべきだと思う。
 

 

 

ところで本日の話はそれとは少しそれる個人的体験記である。以下は飛ばし読みして頂いて結構です。

 

昔、小生が中学生のころ、わかりもしないのに太宰治や芥川龍之介などの文学かぶれであったのだが、あるとき萩原朔太郎の詩を読んで、これはんだ!? と頭を殴られた感じがした(たとえば付記2)。と同時にこの詩がわからないと文学がわからないことになるのか、「自分は作家には不向きだ」とその方面への志望を断念した。

 

何故こんな表現ができるのだろうと、不思議でならない詩が朔太郎には多すぎたのだ。それから半世紀以上が経過した。

 

先日、ネット上の青木文庫から萩原朔太郎の全著作をダウンロードして、片っ端から読んでみた。彼は確かに誰よりも鋭敏な感覚の持ち主で、しかも詩作に関しては満々たる自信家である。書かれている「詩論」は極めて論理的でわかりやすい。アナログでなくむしろ極めてデジタルである。

 

しかし、著作のうちの一つの随筆を読んでいて、「あれ?」と思った。それは、彼が、ヒロポンやモルヒネなどの麻薬を使って詩作をしていたことがある、というさらっとした記述に巡り会ったことである。

 

これって、聞き捨てならないことではないだろうか?

 

彼の一時期の詩には誇大妄想、幻覚、幻聴、幻想、破滅、自己解体、自己陶酔、崩壊願望などなどあらゆる陰々滅々な奇想天外な表現がでてくる。これらはまさに時空を越えた<脳内空間>の世界である。

 

これらの奇想天外な表現力を、小生は「萩原朔太郎は超現実的な詩的構想力の持ち主である」と、ずっと惑わされて劣等感を抱いていたのだ、ということに遅まきながら最近ハタと気が付いた。勝手な解釈かも知れないが、彼がヤク(麻薬)に頼っていたことがあるということは小生にとっては目から鱗(うろこ)であった。

 

  

そう思って読むと、彼の詩に対してはいまや何の違和感も感じなくなってしまった。狂った頭ではそういう幻覚も浮かんで当然だ、という作品の読み方になってしまったからである。あらためて読むと、今ではむしろ表現が控えめすぎるくらいに感じてしまう。

 

一時期、ジャズ作曲家がマリファナを吸いながら後世に残る名曲を作曲したということは、良く聞く話である。詩作の世界でも、当然そういうことがあるのだろう。多分ストレスがたまって詩人としての本当の構想力が萎えてくると、アルコール以外の強い麻薬に頼ることになるのだろう。しかしそれは自己崩壊につながる行為だと思う。プロの運動選手のドーピングと同じである。

 。

ところで、言葉は悪いが、最近の現代詩は小生には魅力がない。なぜだろう。「正気」での詩の表現は、「幻覚」の中で書く詩の表現を決して凌駕できないのかも知れない。

 

その上、現代は社会そのものが狂っている。電車の中でも道端でも、大声を張り上げたり、独り言をつぶやく人が非常に増えている。その時、彼・彼女らは目が据わっており、現実から隔離された時空を越えた異次元の<脳内空間>に居住している。また、現在では作品よりも奇々怪々なる社会的事件や自然現象が続発している。

  

だから詩人もたいへんだ。

 

しかし、実際には超幻覚表現が「面白い」と思うのが人間である。狂えば狂うほど面白いということもある。だから芸術は永遠であるのだろう。

 

<脳内空間>での幻覚は、異常かも知れないが、それもれっきとした人間の精神・神経活動だから、詩人は表現材料(対象)には事欠かないのだろう。あとは詩作の「表現力」の問題であるのだろう。それが萩原朔太郎は抜群だったのだと思う。

 

しかし、現在でも薬漬けの詩人は、ベラルーシの患者のような、何ら脈略のない言語操作で、主観を播き散らして悦に入っているようなところがないとは云えない。
 

     

(森敏)

 

付記1:こんなことを書くと、ど素人が詩人やベラルーシの患者の人格を冒涜している、差別と偏見だという声がすぐに返ってきそうです。そういう意識は毛頭ありません。放射能汚染地域住民の放射線による精神神経障害が将来恐ろしいことになるかも知れない、ということが云いたいのです。

付記2:

くづれる肉体

蝙蝠(こおもり)のむらがってゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體の柱をながめた。

それは宵闇(よいやみ)にさびしくふるへて

影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく

ぞろぞろと蛆蟲(うじむし)の這ふ腐肉のやうに醜くかった。

ああこの影を曳く景色のなかで

わたしの霊魂はむずがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡霊の居る島々を渡ってきた。

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたくしのくづれゆく影がさびしく泣いた。

                定本青猫(萩原朔太郎)

秘密

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