2012-12-22 09:01 | カテゴリ:未分類

    先日、券が手に入ったので恒例の日展を見に出かけた。

 

今回の東日本大震災や原発爆発に関したなんらかの作品があるだろうかと、少し期待していたのだが、日本画の会場にも、洋画の会場にもそれらしき絵はなかった。

 

洋画部門で、鮭という作品があり、その「うろこ」の書き方が巧みだったので、近寄ってみると、鮭の下敷きにしている新聞紙に「東日本大震災。。。」なる新聞の見出しが遠慮気味に書かれていた。 この1点ぐらいであった。

 

震災以来数々の報道映像が動画で流れ、報道写真展も開催されている。これら、この世の中にまったくありえないと思われた津波や原発暴発やそれにまつわる被災状況の映像が氾濫している。だからそれらに勝る「絵画」作品はなかなか生まれにくいのだと思う。絵画はこのありえないショックを一度ばかりでなく、2度も3度も飲み込んで自分なりに咀嚼して表現するのだろうから、少し時間がかかるのかもしれない。

 

画家が、被災現地で写生なんぞして居ようものなら、住民に軽蔑されるが落ちだろうから、写実画はあり得ないのではないかと思う。

 

一方、鎮魂や希望の音楽はこれからも続々と誕生するだろう。これらの音響作品は、今回、日本人の心にくりかえし潜在的に刷り込まれた圧倒的な被災映像をバックにして聴かれているので、貧素な作曲でも絵画などの他のジャンルよりも有利なのだと思う。

 

小生はいつだったか忘れたのだが新聞から切り抜いたウクライナの夕暮れを撮影した10センチ角の写真を額に入れて自宅の玄関の壁に飾っている。これはまるで絵画のようである。右の画面にチェリノブイリ原発爆発以降の、放射能汚染した森林と左側には大きい河が流れており、真ん中の水辺に馬が一匹放牧されているだけの夕方の光景である。この写真をみるたびにかつての沃野に放射能が飛び交うことを連想してきたのである。あくまで他人事として。しかしそれが日本で現実になるとは思いもしなかった。実に暗示的な写真なのである。(今、外でこれを書いているので正確なことは確かめられない)

 

岡本太郎の「明日の神話」や丸木夫妻の「原爆の図」のような「絵」が生まれるまでには少し時間がかかるのかもしれない。

 

(森敏)
 
付記1:誤解をしないでもらいたいのだが、小生は画家に対して、かつての戦争映画のような、時局に即した絵をかくべきだなどと、単細胞的なことを言っているわけでは全くない。
   
付記2:絵にはど素人ながら絵にしたらどうかと思う場面がある。それはどんなカメラにも撮られていない、撮れるはずがなかった場面である。

それは被災者達の兄弟・姉妹・親子が津波で生き別れになるその場面である。個々の生き残った体験者ごとに数え切れない様々な悲壮で壮絶な場面があるだろう。そのけっして忘れがたい瞼の記憶を絵に表現するのである。まだ人々が詳しく語るのには年月がかかるだろうが。。。。

秘密

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