2008-06-24 02:32 | カテゴリ:未分類

 

集中豪雨の教訓

 

日本の梅雨が集中豪雨型に定型化してきた。直近の過去によく学んで再度の失敗を繰り返さないことが必要であろう。

 

小生は2004年10月19,20,21日に日本列島を台風23号がおそった兵庫県豊岡市と出石郡の堤防決壊現場を、2ヶ月後の12月23,24,25日と現地調査した。記録によると10月20日だけで241ミリの大雨であった。

 

兵庫県円山川上流の出石(いづし)川の鳥居橋(80メートル)の左岸の決壊現場直下は小生の中学校の恩師(当時75才)の敷地で、いまは根こそぎ流失してしまったが、かっては土蔵があったところであった。恩師の説明で堤防決壊後の洪水のすざまじい破壊状況が理解できた。出石川が橋の手前100メートルのところで緩く右に蛇行しているので、流れが激しくぶつかる鳥居橋の手前の左岸が50メートル決壊したが、増水を加速したのは橋の存在が大きいと思われた。鳥居橋は車道と、人道の2本が別々に平行して5メートルはなれて架かっており、車道の橋が、8本もの頑丈なコンクリートの橋脚を有しているということが、流木をからませ、そのために流れがせき止められて、増水し、盛り上がった水が2本の橋の2m高の鉄板の橋梁や1.5mの欄干でさらに抵抗を受けたために橋の両側に溢水し、溢水した水が、堤防の外側の土砂を繰り返し激しく削り取ったために、堤防が外側から細って行って、川からの水圧に応えきれなくなって決壊したと考えられた。約20平方キロの田畑が渦巻き状の洪水で一気に水没した。恩師の一族の墓石はすべからく倒壊壊滅し、遺骨も全部流失していた。その墓の状況は現代の小さな遺跡ともいうべき物で、小生は無責任に「このまま洪水記念遺跡として保存したら」と口を滑らしてしまった。「そんなことをしたらご先祖様にしかられる」と恩師はご立腹であったが。

 

一方、豊岡市東の円山(まるやま)川に架かる立野(たちの)大橋(120m)の手前50メートルの右岸は上流にわたって100m幅で決壊していた。このあたりは橋に向かって川が直線に走っているので、右岸が決壊した理由は、右岸の堤防の高さが左岸よりも低かったわけではないので、右岸の堤防の盛り土が軟弱だったからであろう。もし左岸が先に決壊していたら、左岸外側に位置する豊岡市街地は相当な水没を受け、被害が甚大であったであろう。それにしても、この立野大橋も、車道用と人道用が2本別々に5メートル離れて平行して架けられており、車道は8本の橋脚を有している。したがって、出石川の場合と同じく、橋脚に上流からの流木がかかって川の流れを妨害し、ここで川の水位が盛り上がって、なお人道と車道の鉄板の橋梁や欄干でも残査がひっかかって、右岸に越水したものと思われた。左岸の堤防のコンクリート壁の川側には一番上までは川ゴミ残差が付着していなかったので、右岸の方が先に越水し始めて、右岸堤防の外側の土砂が繰り返しえぐられて、細くなっていき、水圧に耐えられなくなって、決壊したと考えられた。

 

皮肉なことに、決壊箇所には農業用水の取水口が設置されていた。決壊場所のすぐ下には、金井知事による「用排水路改修之碑」の石柱が建っており決壊した土砂に半分埋まっていた。この用水路の取水口が何らかの決壊要因になったことも考えられた。決壊当時の航空写真を見ると決壊箇所からは右岸の約60平方キロにわたって田畑や周辺民家が水没している。遊んでいた子供達からの聞き取り調査や、民家の庭の金網のフェンスに引っかかった灌木の根の様子から、民家は2-3mの高さまで浸水したと思われた。泥状化して破壊されている、洪水以前にはきれいに規格化されていたと思われる農道を雨に打たれて歩いていると、「昭和58年から平成8年にわたって総延長10kmにわたって兵庫県豊岡土地改良事務所が74億円をかけて農道を完成した」ということが記載された大きな記念石碑に出くわした。用水路から灌漑水を引き上げるべくフェンスに囲まれた「揚水機場」も完全に水没したためか無惨な姿をさらしていた。今後の田や用水路からの泥の掻き揚げ、揚水機の再装備、田の境界の再確認、田面の均平化など、この地区の圃場の早期の再整備は前途多難と思われた。それらをどの支援資金でやるのか、今春に田植えが出来るかどうか、一刻も猶予がないと思われた。この台風では死者不明者91名、全半壊132棟、床上浸水9271棟であったと報じられた。

 

その翌年2005年9月28日に豊岡コウノトリ郷での人工飼育のコウノトリの放鳥日にあわせて、小生は再び豊岡を訪問した。そのとき、この水没した水田地帯の再建状況もつぶさに見学した。すでにきれいに区画整理が行われ稲穂が実っていたが、まだ充分な栽培環境が整備されているようには思えなかった。

 

ところで、話題ははるか過去にさかのぼるが、小生が大学の助手(現在は助教と称している)になった2年目の時、1967年8月26-29日に希代の「羽越豪雨」(局地的には748 ミリ/日の豪雨)があって、山形県最上川上流の支流が各所で決壊し庄内平野が洪水に見舞われたことがあった。その1週間後に、国鉄が開通したので、小生は大学院生と研究生と3人で、現地調査に行ったことがある。

 

堤防決壊の原因などに関して、この羽越豪雨の時には余りよく理解できなかった。しかし今回の円山川の氾濫ではそれがよく見えた。現場で生起する現象を観察する力と原因を究明する分析力いうものはなかなか一朝一夕には身に付かない物である。そのことを35年めの大水害であらためて自覚させられたことであった。

 

今年も、集中豪雨で日本の何処かで河川の決壊が無いことを切に祈りたい。

 

(森敏)

 

 

秘密

トラックバックURL
→http://moribin.blog114.fc2.com/tb.php/156-16dcffa4