2008-05-24 11:13 | カテゴリ:未分類

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大正天皇御由緒地(日光植物園)

 

日光には大正天皇が避暑に使った多母沢御用邸があり、これはいま多母沢御用邸公園となって公開されている。その西に隣接して日光植物園がある。その正式名はパンフレットによると東京大学大学院理学系研究科付属植物園日光分園である。ここも公開されている。東京都文京区の小石川植物園が小石川本園というのだそうである。

 

ここを訪問して、学生の実習などの宿泊施設で学生達と食事をしていると、頭の上に「大正天皇御由緒地」 というお世辞にもうまいとは言えないが、実直そのものの前侍従長徳川達孝謹書の額が掲げられていた(写真上)。その横には、記念の石碑を建てたゆえんが書かれていた。句読点がない旧漢字などの文をそのまま引用する。

 

大正天皇の暑を避けて日光に駐輦し給ふや毎日必ず此地に散歩あらせらる大正二年より同一四年に至り凡六百八十八日なり今茲東京帝國大學職員側近奉仕者地方官民等相謀り一般有志者亦之をさん贊同して記念の碑を建てんとせしに事 天聽に達し畏くも内帑の金を賜ふ 皇太后また賜ふ所あり蓋し特恩に出つ而して碑材は御用邸の庭石を下附せられしなり庶幾くは豊碑よく聖迹を不朽に傅へ後の此園を訪ふ者をして徘徊仰慕せしめん

昭和二年七月建 

 

昼食後、舘野正樹准教授による草花や木に関する説明を受けながら、園内を一周していると、とある小高い場所に石碑が建っており、そこに比較的新しい銅板が埋め込まれていた。正面は先ほどの「大正天皇御由緒地」という書の写しであり(写真中)、裏側が大正天皇による漢詩であり、その訳文と平成14年に再建立した説明文があった(写真下)。漢詩は以下のとおりである。

 

帝都炎暑正鑠金 遠入晃山養吟心

離宮朝夕凉味足 四顧峯巒白雲深

有時園中試散歩 花草色媚緑樹陰

曲池水清魚亦楽 徘徊不知夕日沈

 

(大意)

東京の暑さは金属も溶かすほどだ 

遠く日光の山を訪ね詩作の心を養う

 

離宮の朝夕はとても涼しい 

見渡せば山々には白雲がかかっている

 

植物園内を散歩する機会があった 

花や草はあでやかで木は緑陰を作っている

 

池の水は清らかで魚も楽しそうだ 

歩き回っていると日の暮れるのも忘れてしまった

 

小生の世代がこれまでに見聞きしてきた大正天皇に関する噂は芳しくないものが多かった。しかし最近宮内庁の侍従日記などが公開されて、大正天皇に関する実像が明らかにされつつあるようである。大正天皇は風雅な文人であり、一見軍部から見れば軟弱であったので、当時の国威発揚に使いにくかったので、病弱ということにして国民の前から遠ざけた、ということが真相らしい。此の日光の地では意外に水を得た魚のように自由闊達に過ごしていたのかもしれない。この漢詩の冒頭にあるように、東京に出て暑い政争の中に翻弄されることが嫌で嫌で仕方がなかったのではないだろうか。

 

この日は曇っていたが、大正天皇が漢詩で詠っているまさにその光景が目の前に展開していた。

  

(森敏)

 

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            若かりし日の大正天皇 

 

 

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                         深山幽谷

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      湖面に映える赤い花は日光に群生する山ツツジである
  
 
 
追記:この記事を書いて9年後に、以下の記事が載った。大正天皇の厭世観がこの漢詩の本心であることがわかる。

 

大正天皇実録:公開拡大 病状明らかに 多忙な公務影響か

毎日新聞 20150701日 東京朝刊

 

 大正天皇の47年の生涯を記録した「大正天皇実録」について、宮内庁は公文書管理法に基づき、これまで個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半を解除し、ほぼ全文を公開した。今回の公開で、繰り返し起きた脳貧血の病状や、元老の山県有朋ら政府要人らと頻繁に面会していたことなどが明らかになった。【真鍋光之、高島博之】

 大正天皇実録は当時の宮内省が1927年から10年間にわたって編修した。宮内庁は200211年に4回に分けて公開したが、個人情報は黒塗りにされていた。11年施行の公文書管理法に基づき公開基準を見直した結果、黒塗り部分は全体の3%から0・5%に減った。診断書や学業成績は、引き続き非公開となっている。

 病状に関する記述を見ると、1925(大正14)年12月の記述はこれまで「十九日、■■■脳貧血ニテ■■■御恢復(ごかいふく)アリ」と黒塗りされていたが、今回の解除で「十九日、午後四時四十分突然脳貧血ニテ一時人事不省ニ陥ラセラレシモ漸次御恢復アリ」と記されていたことが分かり、夕方に突然、意識不明に陥るほど重篤な状態になったことが判明した。

 逝去する26(大正15)年の5月11日午前2時40分と、4カ月後の9月11日午前11時25分にも突然、同様の症状が起きていた。特に5月は「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。

 「大正天皇」などの著書がある古川隆久・日本大教授(日本近現代史)によると、新たな公開部分から、大正天皇が山県有朋ら政府要人と頻繁に会っていたことや、軍人から何度も第一次世界大戦の戦況について報告を受けていることが読み取れるという。

 古川教授は「私的なこととして黒塗りにされていた面会相手が、実は政府要人であったケースが多くみられ、かなり忙しく仕事をしていたことが分かった。病弱とされた大正天皇が、即位後の多忙な公務をこなす中で重い病気になっていった背景が明らかになった」と話している。

 


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