2008-05-22 15:20 | カテゴリ:未分類

環境整え「放し飼い」でいいのか?

 

5月19日の朝日新聞の教育面で京都大学の尾池和夫総長が京都大学の教育方針について 環境整え「放し飼い」 というタイトルで記者のインタビューに答えている。いわく、

 

「だから放任ではなく、自由な放し飼いが大事なのです。10年も20年も手入れをして、自然の草がえさになるようにした場所に囲いをして、鳥を放つと、健康なおいしい鳥が育つ。教育環境を整える事で、学生が持っている才能を精いっぱい引き出していきたい」

 

これは、なかなかの寓意を持った表現であるので、これに対して正面から批判的な見解を述べにくい。 であるから、この記事のタイトルにあるように、要約して、 環境整え「放し飼い」 が総長の教育に対するポリシーと考えてみよう(多分この記事や見出しは総長の点検を受けていると考えられるので)。

 

どうやら京都大学はこの総長に代表されるようにあいかわらずの天才育成教育を続けたいらしい。小生がいつも言うように、天才は自由に羽ばたける場を与えてやればよい。凡才の教授がなまじ手をかけないほうがいい。その点は尾池和夫総長の言うことに賛成である。

 

しかし大学生の99%は凡才である。(というと、秀才を自認している学生は怒るだろうが)。 実際、学生を「放し飼い」 していても自分の適正な能力を自分自身で早期に見いだせる学生は非常に少ない。ほとんどの学生は大学に入学してから卒業するまで、授業や、研究や、恋愛や、人生に迷いに迷っているのがその実態であろう。それに対して適時適切な補助自我的な手をさしのべて行くことが教育ではないだろうか。

 

未熟な、一見できの悪い学生をキチンと社会に通じる学生に仕上げて提供するのが税金をしょって立っている国立大学の最低限の任務だろう(できの悪い学生を切り捨てるのはいとも簡単なことである。それは教育といえないのではないか)。そのためには、大学の教員を採用するときに、研究の業績ばかりでなく、その教育的な素養も含めて、評価をすることが必須である。

 

たとえば、天才的な研究者が良い教育者であるかというと、これは全く相関がない。天才は自ずから成り、凡才は努力しなければ成らないので、天才には努力の意味があまりわからない。ただし天才が身近にいると、「自分もあの先生のような人物になりたい、自分もなれるかもしれない」という気持ちに学生をさせる場合もあるので、ムードメーカーとしての存在価値はおおきいだろう。但しその天才の大言壮語を過信すると、えてして凡才は大失敗をするだろう。

 

教員がポテンシャルの高い学生の素直(すなお)に発達すべき能力をつぶしてしまっている例はいくらでもある。極端に言えば日本の大学教育は、学部教育も大学院教育も含めて、今も累々たる屍を形成しているのかもしれないのである。東京大学も京都大学もよくよくその事を考えたほうがよい。

 

      我が身を顧みて、忸怩たるものがあるが。。。。

 

(森敏)

 

コメント:補助自我

補助自我とは、サイコドラマにおける副治療者であり、即興劇の役者
兼助監督でもある。主役であるクライエントの相手役となって、クライ
エントが自己の内面を演劇として表現するのを助ける役割。

 

 

秘密

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