2008-05-13 17:09 | カテゴリ:未分類

中国成都地震マグニチュード7.9に思う

 

 

1946年(昭和21年)12月21日4時19分過ぎに、潮岬南方沖を震源とするマグニチュード8.0の大地震が発生し、南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生した。これが南海大地震である。

 

このとき小生は5才になったばかりで、高知市旭駅前町の実家で、寝ていて、はげしい振動でたたき起こされたが、立つことが出来ずに、畳、台所のたたきを、這いつくばってゴキブリのように必死で進み、暗闇の庭に出た。庭はすでに石の門柱や塀が崩れて足の踏み場もなかった。どこか高い場所に家族に誘導されたような気がする。皆が余震に怯えて呆然としているうちに、東の空が次第に明け始めて、それをバックに父と長男が「塩の買い出し」から急いで帰ってきた、その二人の黒い影が近づいてくるのを見て、家族皆で安堵したことを覚えている。

 

家は倒れなかったが、角度が西に5度ばかり傾斜してしまった。長姉がそのまま補強して、以後60年間いろいろの人が移り住んだが、昨年ついに、母の死後、兄弟の誰も住む意志がないので、無人になり、ついに解体し更地にした。家屋は解体したが、道路に面した赤煉瓦の塀だけは今も健在である。この塀は煉瓦を平たく積み上げてきっちりとセメントで固めたものであったが、驚いたことに、地震ではびくともしなかった。一方、煉瓦を横にして接着面積が少なくして積み上げたものは地震で全壊した。その倒壊した煉瓦のブロックで我が家の庭先に店を構えていた店子の人が腰を打って、半身不随になった。

 

中国成都地震マグニチュード7.9の映像を見ながら、コンクリートの瓦礫化、鉄骨の数の少なさや細さが印象的であったが、意外に未だ多くのビルが煉瓦作りであるようなので、それが崩壊しているのを見て、いささか感慨深かった。煉瓦ではひとたまりもないだろう。

 

南海大地震の後、小生は8歳の時に阪神の芦屋に移ったが、大学に入って以来は関東住まいなので、その49年後の1995年(平成7年)117日午前54652秒に淡路島北部を震源として発生したマグニチュー7.3の兵庫県南部地震には遭遇しなかった。小生の小・中校時代の友達は多大な打撃を受けて、近年クラス会で会ってもみんな人生観が変わっているように思う。むかし小生が住んでいた芦屋市宮川町は最激震地で壊滅的打撃を受けた。500メートル四方で50人が死亡したといわれている。地震後3ヶ月後にその場所を訪れた時、小生がもと住んでいた家は倒壊してすでにブルトーザーで更地にされ、土地の真ん中には鎮魂の御幣がミカンと共に飾られていた。付近のおばーさんに伺ったところ、住んでいた新婚の奥さんが死亡した、ということであった。元々揺れのはげしい田んぼを埋め立てたおんぼろ家屋であったから、もし住んでいたら小生も確実にアオウトだっただろう。

 

北京にいくと近代高層建築の建設ラッシュに驚かされる。地震国である日本人の素人目に見てもいかにも華奢(きゃしゃ)である。この中国成都地震を契機にして、北京のビルが地震で崩壊することがないように、今後中国政府も建築基準法を大幅に改訂して行くことになるだろう。そうすると、建設コストも高くならざるをえないだろう。そうすると 経済の国際競争力も鈍化せざるをえなくなるだろう。胡錦濤主席が唱えるグローバルスタンダード化というのはそういうことなのである。

 

もっとも、関東大震災をひかえた日本の東京の方がはるかに危険なので、よその国のことを心配しているどころではないのだが。

 

  

(森敏)

追記:5月18日中国成都地震の地震の規模がマグニチュード8.0とあらためられた。発生当初はマグニチュード7.8と報じられたのであるが、この間に実に2回も改訂された。地震学はまだまだ未熟なんだなーと思ったことである。 

 

 

 

秘密

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