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2023-06-29 14:28 | カテゴリ:未分類
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図1。不忍池湖畔の鑑真像 向こう側に見えるのは八角堂とスカイツリー

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図2。盲目の鑑真

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図3。台座のネームプレート

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図4。雨の日の鑑真像



少し古い話になるが、コロナ禍最盛期の2021年から2022年の間は小生も散歩を控えていた。その後、不忍池を散歩していると、ある日忽然と銅色の立派な銅像が建てられているのには驚いた。(図1)
  
像はなんだか目を閉じているか、薄目らしい。(図2)
台座を見ると「鑑真像」688-763と金文字で刻印されている。呉島一糸書(と読めたが間違いかもしれない)2022年立 と書かれている。(図3)
だれがどういう理由で建てたのかその由来について像の裏面には何も書かれていない。
思うにどこかの日中友好人士が建てたのだろうと勝手に推測した。
  
70年ほど前に芦屋市宮川小学校の遠足で奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)に連れていかれて、鑑真和上(がんじんわじょう)の座像をわけもわからず、畳の上に上がってま近かで拝まされた記憶がある。
  
その時、このお坊さんは大陸から来た偉い人で、盲目だと教えられた。どす黒い顔で目をつぶっており、両目の周りが白かった。その理由は教えられなかった。このお坊さんのどこが偉いんだろうと全然ありがたいという気持ちになれなかった記憶がある。(小学生の感想なんてそんなものでしょう)
  
最近散歩のたびにこの像を眺めているのだが、最初は風景になじまない違和感があったのだが、最近は銅像(?)も風雨にさらされて、色がくすんできて湖畔の風景になじんできたと思う。そぼ降る雨のときに顔の拡大写真を撮ったのが(図4)である。
  
盲目であるにもかかわらず両目から涙が頬を伝って法衣の胸元まで流れており、大陸から日本になかなか到着できない悔し涙なのか、それともやっと到着したといううれし涙なのか、なかなかたくまざる感動的な光景だった。
  
あらためて調べてみると鑑真は749年から753年にかけて、大陸から日本に向けて6回も渡航を試みており、船が難波や漂流を繰り返して、やっと六回目に日本の屋久島に漂着したのだった。すでに当時66歳であった。その後76歳で没するまでわずか10年間の間に、日本の各所に戒壇を設け菩薩戒を布教したとのことである。
  
この法衣を風になびかせている鑑真像を、散歩のたびに観るのだが、その立像の風貌は湖岸に映えて、歌舞伎でよく演じられている喜界が島に流された「俊寛僧都」の姿や、横山大観が描いている中国の紀元前の春秋戦国時代の憂国の士「屈原」の像などを思い浮かべる。
  
ちなみに「鑑真の立像は、日中のどこかにありますか?」とチャットでに問いかけたら、真偽のほどは不明だが「どこにもありません」という回答が返ってきた。だからこの鑑真の立像は後世に残る少なくとも日本初のものかもしれない。


(森敏)

追記: 全くの偶然だが、最近古い本である宮冬二 短歌実作入門(1982年4月出版)を書棚から取り出して読んでいたら

  若葉しておん眼の雫(しずく)払わばや 芭蕉

という小生の上述の光景にぴったりの俳諧が出てきた。
図らずも、小生は芭蕉と同じシチュエーションを実際に発見したのだ。
しかしこの芭蕉の句は、唐招提寺の鑑真和上の盲目の座像をみて、その涙を想像して若葉で拭ってあげたいと空想をたくましくしたものである。