WINEPブログ

図1.東京都文京区白山神社周辺の寺社の地図。 本記事の「蓮華寺」は、一番右下の二寺の左側。この地図は本郷通りの三宅石材店の門柱に刻まれている。

図2. 森戸家の墓

図3. 図2の拡大図

図4.森戸辰男の戒名「碩徳院育英日辰居士」と右側が奥方の戒名と思われる。

図5.墓石背面に記された森戸辰男のサイン
中共コロナのせいで、室内での座り仕事ばかりしていて、体調が極めて不良なので、午後3時ごろから散歩に出かけた。
本郷三丁目の「かねやす」までは江戸のうち、と読まれているぐらいで、そこから南や北には、本郷通り、白山通り、春日通り に沿って、半径5キロ圏内には約80ぐらいの寺社が存在している(図1)。京都市内に次ぐぐらいのお寺の密集度ではないだろうか。
最近は、寺社が敷地を幼稚園にしたり、切り売りしたりして、墓地の建立の余地が無くなってきたためか、「陵苑」と称して敷地内マンション形式で数百基も入る回転式の屋内お墓が増えてきた。そういうところには、あかの他人が入れないが、解放系の墓地は今でも、午後4時ごろまでは、関係者以外でも比較的出入りが自由である。
小生は大学院生のころは東大植物園の近くの白山御殿町に下宿していたので、久しぶりに白山通り周辺を、杖を突きながら、休み休みうろうろしてみた。そうしたら、なんと、「蓮華寺」というお寺の入り口の看板に、森戸辰男(学者・広島大学総長・元文部大臣)と広沢虎造(浪曲師)のお墓がある、と書かれていた。
興味が湧いたので、急峻な階段を上がって、広い墓地をくまなく探していたら、森戸家の墓なるものが2つあった。子細に吟味してみたら、この墓地では珍しい横長の墓石の方に(図2、図3)、その背面に、<昭和三十九年九月 森戸辰男建之> というサインが刻まれていた(図5)。また、墓の後ろに立てられた木片には 碩徳院育英日辰居士 という戒名が書かれていたので(図4)、間違いなく森戸辰男の墓と同定できた。花も植木もない実に簡素なたたずまいであった。
家に帰ってWikipedia で調べてみると、森戸辰男は1888年12月23日生まれで、1984年5月28日に96歳の長寿で没しているので、このお墓を1960年(小生が大学に入った年)の72歳の時に立てた後も、20年間も生きていたことになる。生前のその用意の良さ、というか、墓の建之以来自身が長生きしたことには、自分でも驚いたのではないだろうか。
経済学者であった森戸辰男は戦前は無政府主義者クロポトキンの研究者として、東京大学の国粋主義の法学者たちによって内部告発されて、官憲に逮捕留置されて失職したが(有名な「森戸辰男事件」として、小生が学んだ昔の現代史の教科書には載っていた)、戦後は復職して、広島大学初代総長や文部大臣など文教関連の戦後民主主義体制の創建を主導した。小生の若いころは、「家永裁判」で国側の証人に出たりしたときは、「反動」だとか呼ばれていた。文化功労者や勲一等を授賞している。戒名(図4)の「::育英::」という文字には、彼が日本の戦後教育の再建に貢献した意味が込められているのだと思ったことである。
波乱万丈で、現在では右翼からも、左翼からも批判があるだろうが、森戸辰男氏は世間の批判をものともせず、主観的には常に前向きな建設的な人生を貫徹したのではないだろうか。
お寺巡りもたまにはいい。森鴎外も、時代小説の取材のために、谷中方面の寺巡りを相当詳しくやっていたようだ。
(森敏)
付記:以下に、「放射線像」の YouTubeを継続発信しております。ご笑覧ください。