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2020-09-08 21:16 | カテゴリ:未分類

 

小生は、長編小説などは集中力がなくなってきて読みたくなくなってきた。最新の芥川賞受賞作家2人の作品も文芸春秋に載っている中編小説だが、冒頭から読み始めて苦痛ですぐ投げ出してしまった。一方、直木賞受賞作家の「少年と犬」は5編の短編の連作なのだが、その内の3篇だけが載っている「オール読物」をわざわざ買ってよんだ。それぞれ区切りがよくて、犬好きの小生は所々で涙腺がウルウルしながら最後まで読んだ。各編で最初の書き出しからの「つかみ」が絶妙なのである。

  

先日「随想 森鴎外」小塩節 (おしおたかし)という本の宣伝が新聞の第一面の隅に載っていたので、さっそく図書館に購読を注文したら、なんと1週間で入手できた。新刊本はいつも注文して文京区として1冊しか購入しないことが多く、順番が回ってくるまでに下手すると半年はかかる。しかし今回は、文京区が文豪森鴎外の「鴎外記念館」を有するがゆえか、文京区のあちこちの図書館がそれぞれ購入したのですぐ小生にも順番が回ってきたものと思われた。本の第一刷が81日である。文京区本郷図書館の購入日が813日の印が押されていた。役人の仕事としては実に迅速といえよう。

 

著者が本の題名を“随筆”ではなく“随想” としたのは、たぶん起承転結と構えた長文ではなく、“こころに浮かぶうたかた”を前後の脈略を無視して記しものだろうと思った。よんだらその通りだった。読者としては、著者の連想のながれに乗ればいいのでとても読みやすかった。2時間で読み切ってしまった。わずか175ページだがハードカバーの本である。Wikipediaで小塩氏の著作集を見ると、『春近く 随想集』女子パウロ会 (1976)というのがあった。この先生は若い時から「随想」という言葉がきっと好きなんだろうなと思ったことである。)

 

本の「あとがき」によれば、著者の小塩氏は1931年の生まれで現在3年間にわたる病臥生活をしながらの執筆だったそうである。それゆえなのか、全体の印象としては、ドイツ語学の大家である著者がドイツでの生活を森鴎外の留学時代に託して懐かしく回想しているふうに小生には思われた。小生は教養学部時代には第2外国語でドイツ語を学んだが、ドイツ語は全くものにならなかった。苦痛で仕方がなかった。

 

以下、いくつか小生が知らなかった森鴎外の逸話が語られていた。それらに対する小生の雑感です。
    

1. 森鴎外は幼少時に水清き津和野から母と一緒に東京に出てくるが、死ぬまで一度も津和野に帰らなかった。その理由の一つとして、津和野が「隠れキリシタン」の流刑の地であり、その囚人たちに対する過酷な扱いを見て、郷里が嫌になったのではないか、また、鴎外はキリスト教に関しては生涯語らなかった、と述べられている(著者の小塩氏はクリスチャンらしいので、その点は気になって仕方がなかったようである)。昔のことだが小生は学会のエキスカーションのときに津和野を訪れて、森鴎外の自宅の彼がいた居室などを見学して感慨にふけったものである。近くの鴎外の師である西周(にしあまね)宅も見学した。
 

2. 森鴎外の「舞姫」のモデルになった、ドイツ留学中の恋人エリーゼ・ヴィーゲルトに関しては諸説紛々だと思っていたのだが、関連資料をあさってうまく整理されて紹介されている。鴎外は4年間のドイツ留学ののち上司陸軍総監「石黒忠のり」とともに横浜に向けて帰国の船上にあったが、この恋人のことを上司に打ち明ける。石黒は驚愕する。実はエリーゼもその鴎外を追いかけて、二週間後に1等船室での船旅で横浜港に着いた(どうやらこの旅費は鴎外が自分の給与から渡していたらしい)。しかし、石黒をはじめとする軍部や鴎外の母の猛烈な反対で親類・友人・陸軍関係者が奔走して、エリーゼは横浜のホテルに3週間かんづめにされ、ついに鴎外とは一度も会えずに、説得されてドイツに安い帰国経路の切符を渡されて、追い返されてしまう。
 しかし実はその後も鴎外は彼女とはずっと文通を続けていたとのこと。なんたる秘めたる恋心。それがためか鴎外は母の勧めで(徹底的な母親コンプレックス!)、気が進まぬ結婚をさせられて2年後に離婚してしまう。一方、帰国後エリーゼは2年後に結婚し、第一次世界大戦のベルリンの猛火のさなかを生き延びた、腕の太いたくましいドイツ女であった、とのこと。小説「舞姫」ではエリーゼが精神錯乱に落ちいったところで終わっていたと思う。
  

3. 鴎外は死ぬまでずっと肺結核であったが「萎縮腎」のみを世間的には公表していた。軍医が病気じゃ立場がないと思ったのだろう。娘の茉莉と杏奴とはくちづけせず、また、させなかった。鴎外の笑った写真は見たことがない。肺結核を隠し続けたことは、ひげを生やした少し鬱屈した“陰りのある顔つき”が世の中に残されているゆえんかもしれない。
  

4. 鴎外は、陸軍軍医総監医務局長として、当時長く続く国民病であった兵士の「脚気」の原因究明を任された。しかし鴎外はドイツ留学時に細菌学の実技を学んだロベルト・コッホの影響が強すぎてか「病原菌説」に固執した。陸軍兵士の主食を白米から麦由来のパンに切り替えなかったため大陸への出征兵士を戦闘以前に大量に脚気で死なせたともいわれている。一方、若い時にロンドン留学時にセントトーマス病院付属医学校で学んだ海軍軍医総監である高木兼憲は、疫学的観点から白米食とムギ飯食の比較試験を行い、海軍兵士の食事をパンかムギ食として海軍兵士の脚気を激減させた。鴎外は実学的に大失態を演じたのである。
 この本で小塩氏は、脚気の原因物質が米ぬかにあることを発見してノーベル賞を受賞したフンクを紹介している(ノーベル賞は実はアイクマン)。しかし小生は農芸化学者として「オリザニン」と名付けた、のちの真のビタミンB1を最初に米ぬかから精製結晶化させたのは大先輩鈴木梅太郎であることが紹介されていないことを非常に残念に思う。この間の学問的な熾烈な背景は鈴木梅太郎の回想録に詳しい。(付記参照)
 

5. 総じて小塩先生は森鴎外の業績として、小説などよりもドイツ語の語学力を高く高く評価している。外国語を日本語に翻訳するに際して幼少時から漢籍に通じた鴎外の翻訳の訳業の人知れぬ労苦が、ドイツ語学の大家である小塩先生からは、嫌というほど透けて見えるのであろう。
 
  
(森敏)

付記:鴎外に関してはこれまで以下のブログを書きました。


   

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「ビタミン研究の回顧」 鈴木梅太郎著 に感動した