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2019-09-11 14:34 | カテゴリ:未分類

     小生は、中学生のころは、六甲山のシダ植物を50種類ばかり採取して押し葉にして、夏休みの理科の宿題として提出したことがある。その時は牧野富太郎編集の「牧野植物図鑑」が最高の指南書であった。押し葉の標本にラテン語の学名を付すのでなんとなくアカデミックな気分を味わえた。
 
  灘高では、生物は1年生の時だけ授業があったが、この生物の教師は牧野富太郎の弟子とかを自称していて、フィールドワークには強いということであった。しかし、灘高では野外実習がなかったので、この教師の特技を学べなかった。この生物学の授業は何をしゃべっているのか脈略がなく、教師の不勉強が顕著でつまらなかった。

 

  その後、駒場の東大教養学部では湯浅明教授の授業を受けたのだが、これがまた最初から最後まで生物の分類学で、分類名や種の名前をラテン名で黒板の全面にずらずらと書くという教え方で、本当に何の感動もなかった。睡魔が襲ってきて、分類学がすっかり嫌になった。しかし、同期の某君等は、期末試験の時に「先生、回答用紙は何枚書いてもいいのでしょうか?」などと、えんえん「生物進化」に関する回答を書き連ねていたので、彼我の知識量の差に圧倒された。一方生理・生化学などの授業はクラス担任の菅原先生(お名前は忘れました)が教えていたが、この先生の専門はウニの発生学ということで、生化学がとんと弱かった。柴谷篤弘などが紹介する当時台頭する分子生物学をフォローできていなかったのだと思う。

  本郷の農芸化学科に進学してからは植物栄養肥料学(三井進午教授)研究室では選択的除草剤の研究を石塚皓造助手(現筑波大学名誉教授)が行っていたので、田畑や大学構内の雑草の名を 当時めずらしいカラー印刷の 北隆館の本(書名は忘れた)とにらめっこで必死で覚えた。が、記憶力の悪さに我ながら嘆息した。その時覚えた雑草の名前が最近はほとんどすぐには思い起こせない。
     
  三井研究室では現地見学を兼ねて、毎年夏休みには、泊りがけの研究室旅行をしていた。ある年に埼玉県の国立の北本農業試験場(現在は廃止されている)を訪れた。この時は出井(名前は忘れました)場長ご自身が場内を案内してくれた。出井さんは土壌肥料学が専門だったのだが、この試験場では当時の流行の試験研究課題として、水田や畑の作物は殺さないが、雑草のみを殺すための「選択的除草剤」の開発試験もされていた。現場での説明では雑草の名前が彼の口からすらすらと出てくるのに感心した。「出井さんは水田雑草などの植物の名前をどのようにしておぼえられたのですか?」と伺ったところ、「はずかしながら、自分が知らない雑草は小学生の自分の子供の夏休みの宿題にして、子供と一緒に採取して押し葉にして、学名などを覚えたんです」という返事が返ってきた。偉くなっても地道に苦労されているのだなーと感動した。
          
       

     このように 草花や動物の名前を覚えるには、徹底的に幼少の時からきちんとした博物学の教師に連れて行ってもらって、生きている現場で学ぶことが重要であると痛感しているが、もう遅い。
              

  名古屋大学の植物栄養学教室の教授であった谷田沢道彦先生(故人)は、東大農芸化学科の出身だが、若い時にイギリスの国立公園「キュー・ガーデン」に留学しておられて、土壌肥料学会のエクスカーションなどでいっしょになると、そこら辺の雑草の名前をラテン名で諳んじており、次から次へとメモに書いて、小生に見せてくれるほどの博覧強記であった。分類学者でもないのにこの先生の頭の構造はどうなっているのだろうと驚嘆したものである。先生は、生前に自分が持っている「貴重な数多くの植物分類の原書などをどう処分しようか」などと悩んでおられたが、その後どうなったのかは知らない。

 

  原発の放射能汚染地帯の調査に行くと植物の採取も行うので、必然的に学名を正確に同定しなくてはならない。ほとんどが通常の雑草や樹木だから、ほぼ同定の間違いは起こらないはずだが、最近は名前がすらすらと出てこなくなった。とくに樹木は持ち帰った葉の形や種子だけでは分類が難しい。だから専門家に同定していただいている。

 

  先日本屋をぶらついていると、以下の文庫本が4冊が同じところに置かれていた。本屋さんの販売戦略だとは思ったのだが、この4冊を買って日本の普通の身近な植物をどのように表現しているのか、どれが素人に一目で分かりやすく描けているか、などを比較検討してみることにした。

 

新編 百花譜百選 木下杢太郎画/前川誠郎編 岩波文庫

柳宗民の雑草ノート 柳宗民 文/三品隆司 ちくま学芸文庫

シーボルト 日本植物誌 大場秀章監修・解説 ちくま学芸文庫

身近な雑草の愉快な生き方  稲垣栄浄 文/三上修(画)

  一番親しみが持ててわかりやすく描かれていると思われたのは「百花譜百選」で、木下杢太郎が 東大の皮膚科の教授でありながらこれらの絵をまさに第二次世界中(昭和18年3月から年-20年7月)の間に描いていることに一種の感慨を覚えた。それらの絵には寸書きがあり、身近な出来事やあるいは戦時の局面が抑制的に記載されている。東京の空襲下で、食糧難である上に、深刻な胃腸病で本人が衰弱しつつあるのに、1種類の草木を何時間もかけて描く執念の深層心理ががどこにあったのだろうかと、描画を見ながら深く考えさせられるものがあった。戦時でほとんど戦況については絶望的心境にあったのではないだろうか。小生は20年以上前に、伊豆で科研費の会議があって、いちど医学部の友人の案内で伊東市にある木下杢太郎記念館を訪れたことがあるが、その時は木下杢太郎は単なるデイレッタンではないか、としか印象がなかったのだが、実際は才能が溢れすぎる人材だったことが、前川誠郎氏によってこの本の「あとがき」に記されている。 


(森敏)
付記1:
文藝春秋2015年4月号に「本草学の現在」というテーマで 前掲のシーボルトの本の監修者である大場秀章東大名誉教授が以下に述べている。
::::高等教育研究機関である大学では、設立当初日本の生物相の解明を大きな研究課題に据えたが、第二次世界大戦後は消滅は免れたものの気息奄々(きそくえんえん)の状態が続いた。その余波といっては語弊があるかもしれないが、多様性研究を担う施設の博物館さえあわや不要の烙印を押されそうになったこともあった。:::::::

  つまり東大理学部植物学教室や他の大学からも、新しい生理学や分子生物の台頭に抗しきれず、早々と分類学の講座が消滅してしまったようである。しかし現在では付属博物館や付属植物園の教員が分子生物学と形態学をドッキングした新しい研究領域に気を吐いて、世界的な研究成果を挙げつつあるようである。


付記2. 上記の記事は2015年に書き留めていたものに若干手を加えたものです。