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2019-08-13 10:46 | カテゴリ:未分類

「群青」江川友治先生の生涯 
「群青」(続編)江川友治先生の生涯
  

(明治大学農学部江川研究室OB会編集。著者江川友治。協力者江川浩子。前者は 2015年5月23日発行、後者は2018年7月14日発行)

 

という、2つの冊子体(全部で44頁)の寄贈を受けた。

 

この本に記されている、江川友治さんの経歴を略記すると、江川さんは1941年3月に東大農芸化学科生物化学専攻を卒業して、当時西ヶ原にあった農業技術研究所の三井進午技師の部屋に配属された。この年12月8日に日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入した。翌17年4月江川さんに「赤紙」(召集令状)が来て、福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、昭和20年8月敗戦で復員し元の三井研究室に復職した。その後農水省内で知る人ぞ知るで赫各たる研究業績と行政手腕を発揮していった。退職後明治大学に再就職されたようである。2012年逝去。

 

この冊子の中には江川先生のうめきのような憂国の反戦思想が詠まれているので、8月15日の敗戦記念日を迎えるにあたって、以下にその一部を無断引用させていただいた。

 

  

戦争は遠き昔のことなれど忘れ得べきや雨の塹壕

 

物忘れ激しくなりし老いの日に忘れ得べきや惨の戦場

 

銃抱きて雨の塹壕に眠りたる中国河北省保定を思う

 

自死したるあまた兵らを見捨てたる中国戦場湘桂難路

 

なぐられて殴り返さん術もなくただ耐えしのみ兵たりし日は

 

「赤紙」も「召集令状」も死語となり憲法九条すがる思いに

 

改憲は命かけて阻むべし惨の戦争を知りたるわれら

 

 

冊子の最後には、江川先生の言葉としてこう記されている。

 

::::

さて、軍部の独走による戦争をなぜ食い止められなかったのか、という問題ですが、これが問題です。その原因は長い歴史的なものがあると思いますが、その中心となることは、学問、言論、思想の自由が完全に圧殺され、軍政府による一方的な情報だけが国民に伝えられたということではないかと思います。

  

   


(森敏)
付記1:ここに登場する三井進午技師は、のちに東大農芸化学科肥料学研究室教授となって赴任した小生の指導教官でもある。
 
 生死の境の戦場を潜り抜けて、復員してきた江川さんの、その当時の精神は無頼の徒で怖いもの知らずであっただろう。労働組合を結成して、西ヶ原の農業試験場では意気軒高にふるまっていたのではないかと想像される。研究姿勢にはめちゃくちゃ厳しかったが、思想的には温厚であった三井進午技師は、研究室の同じ大学の農芸化学科の後輩の江川さんにはいささか手を焼いていたのではないかと想像した。
 
付記2:明治大学農学部江川研究室OB会編集の皆様、無断引用をお許しください。
   
追記1:江川先生のように、戦争を知る世代が高齢で逝去して行く中、今日改憲ムードが深く静かに潜行している。しかしそんななかでも、以下のように、若手政治家から明確な「改憲笑止」勢力が台頭してきたことは本当に心強い。

「安倍晋三首相が狙う憲法改正に関しては「現行憲法も守っていないのに(首相が)改憲を言い出すのは非常に危険だ。寝言は寝てから言ってほしい」。(山本太郎 時事通信へのインタビュー8月11日)
 
追記2: 上記「群青」には、昭和19年(1944年)に江川さんが陸軍少尉になって立川宿舎に一時滞在時に
   
「軍服姿で一時、わが懐かしの三井研究室に突然訪問したら、三井技師が昼間からヘルメットをかぶったまま机に向かっているのを異様に感じた」
  
という記述がある。この年から日本本土への米軍による空襲の本格化が始まったのである。小生はこの記述を読んで、感慨深いものがあった。三井先生はその後、東大肥料学研究室の教授に迎えられ、小生は1963年に卒論生として先生の指導を仰ぐことになった。東大広しと言えども、当時は研究費がなくて、東大ではおそらく三井教授室にだけクーラーが設置されていた。今年のように猛暑の夏には、その教授室で三井先生はすやすやと午睡を取っておられた。今から思うと、三井先生は戦時中の農業技術研究所での研究室の緊迫した雰囲気から大いに解放されて、熟睡されていたのだろう。我々は「ただいま動物実験中」と教授室の扉にひやかしの紙を張り付けたりしていたのだが。