2016-08-10 22:17 | カテゴリ:未分類

         村上春樹「職業としての小説家」が昨年6月頃出版されたときに、気になる本の題名だったので店頭ですぐ買おうと思ったのだが、紀伊国屋が80%買い上げて通常の本の流通経路の独占を排したいということだった。なので、早期の店頭買いは不可能とあきらめ、読む時期が遅れてもいいからと近所の図書館に閲覧を注文した。ところがこの本はすでに30人待ちだとかいうことで、仰天した。その後はそのママ忘れていた。なんと一年以上経って先日やっと「順番が回ってきた」と図書館から連絡があった。

 

        この本は小生にはとてもおもしろかった。丸5時間かけて文章を味わいながら集中して読了した。

 

        日本の作家の場合、自分が小説家として生長していく人生航路や、自分の小説の創作過程を、赤裸々に開陳した、という話はあまり知らない(小生が知らないだけなのかもしれないが)。

 

        思うに、村上春樹は正確な「自伝」を残しておきたいという年齢に達したのかもしれない。現世や後世の評論家などによって書かれた「外伝」が村上春樹の死後、世の中にまかり通って「正伝」となるのでは、とてもかなわないと思ってのことかもしれない。他人が書いたものは事実関係も含めてほとんどが作家本人の意志と異なることは必定だからである。「いいかげん、評論家の村上春樹論は現在でもずれてるんだから」と村上春樹自身がきっと思っていることだろう。

 

        村上春樹はこれまでもいくつかの随筆の随所で、自伝的なことを述べているので、いわゆる心底からの「村上教」信者(ファン)にとってはこの自伝はあまり新規な内容ではないのかもしれない。しかし、小生には非常に新鮮で、ぐいぐい一気に引っ張られて読めた。彼の小説と異なり、レトリックに凝ることなく首尾一貫してだれにでもわかりやすい言葉で書かれているのである。

  

        全部で12章あるうちの一章を「オリジナリテイー」について開陳している。小生でなくても読者が科学者なら、小説家が正面から語る「オリジナリテイー」には興味津々だと思う。ということで小生はこの章から読み始めた。

   

        正面から構えて音楽、絵画、小説などの順にオリジナリテイーとは、と展開しているが、結論的には「新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなくその人自身のものであること」(105ページ)と総括されている。しかしこれは、実は作品を見る外側からの観点であって、創作者自身の内面からの心的過程を語るものではない。一点「作家にとってそれを書いているときが楽しくなくてならない」と言うことがかかれていて、これは大いに納得した。しかし「なぜ楽しいのか?」という自分の内面を分析して誰にでもわかるように表現することは至難の業で、それどころか、それは事実上不可能というべきであろう。創作の動機は内面に材料がたまってきて沸々と「書きたい」という気持ちがわいてくるのだそうである。実はこれは自然科学の研究者である現今の我が身に引き比べてもきわめて納得できることでもある。

 

        小生が現役の時は、国から研究費をもらっているので毎年一定数のレベルの高い論文を書かねばならないというストレスに追いまくられていた。(いまでも世界中の研究者が戦々恐々で先駆性や独創性を競ってそのほとんどが、こう言ってはなんだが、「研究費獲得のための研究」を行っている。) そのために、アイデアがわくたびに学部生・大学院生・ポスドクの尻をせっかちにたたきまくった。幸いアイデアには事欠かなかったが、なぜそのアイデアが自然にわいてくるのか、に関しては、自分でもよく把握できなかったところがあった。発想の源泉みたいなものはたぶん小生のような鈍才にはあれこれの努力(通常科学をくりかえし地道にやること)の過程で、状況が煮詰まって、ある日突然自然現象の「法則性」が漠然と見えてくることだったと思う。

  

        現在現役を退いているので、論文を書かねばならない必然性はない。しかし福島原発事故による放射能汚染調査に関わっていると、試料やデータの蓄積や見聞の蓄積から、「論文を書きたい」という気持ちが沸いてくることも事実である。これは何ら義務ではない。だからこの欲求は研究者としての初期の素朴な気持ちである「未知の自然現象を解明したい」という興味から出発した本来に立ち返っているのかもしれない。

 

        話は振り出しに戻るが、「職業としての小説家」を google でキーワード検索すると、amazonで読者感想文が100点ばかり掲載されている。掲載のだぶりをのぞくと実質的には50点ばかりの感想文だ。全部読むのに1時間以上時間がかかった。それらを読むと、あまり村上文学に親しくない人から,なかなかの深淵な村上文学論を有するプロの評論家まで、様々な意見が開陳されていて非常におもしろかった。村上春樹の小説や随筆は好き嫌いはあれ、とにかく老若男女の誰にでも「ちょっと気になる」作品であり続けていることがよくわかる。(実際、村上春樹の芦屋市精道中学校時代の国語の先生であった広井大 先生は、村上春樹の本は、「気になるので、必ず買って読んでいる」とのことである。しかしほとんどが先生の気分には合わないので、結局積読(つんどく)になっているんだそうである)。「職業としての小説家」である村上春樹は、その外野席からのいろいろなうわさ話をきっと「ピントがくるっているなー」と余裕をもって楽しんでいるのではないかと小生には思われる。

 

      諸般の 材料がたまって 「書きたい」という気持ちが煮詰まってきたら数年後にまた刺激的な村上春樹の大作が世に出ることを大いに期待している。それまで楽しみに生きていよう。
      
(森敏)

 

     

2015-12-04 23:21 | カテゴリ:未分類

これまで、その画家の背景がよく理解できなかった藤田嗣治に関して、最近立て続けにマスコミで宣伝されているので(電通か博報堂の戦略か?)、のこのこと芸術の秋の鑑賞に出かけた。

  

  最初に見たのは 映画「FOUJITA」小栗康平監督 オダギリ・ジョー主演

であった。この映画は映画製作者のプロが見ると素晴らしいのかもしれないが、小生には何を表現したいのか理解できずさっぱり消化不良だった。藤田嗣治の人物像が分裂して却ってわからなくなった。余計なことかもしれないが、オダギリ・ジョーの笠智衆ばりの“熊本なまり”のイントネーションには何とも違和感を覚えた。

 

  次に見たのは 
東京芸術大学の美術館での 藤田嗣治≪舞踏会の前≫修復完成披露展 と「藤田嗣治資料」公開展示 (開催期間12月1日-6日)
であった。前者は長年倉敷の大原美術館所蔵中に傷んで何回か修復された絵画≪舞踏会の前≫を苦労してさらに近代的な手法で修復する過程が展示されていて、修復の科学的技法が勉強になった。修復した完成品は素晴らしかったが、後に見た東京国立近代美術館での保存が完ぺきと思われる別の裸婦象、例えば≪タピスリーの裸婦≫など息を飲むような迫力と比べると、藤田特有の「乳白色」の再生などでは、すこし見劣りがする感じがした。 また、「藤田嗣治資料」公開展では藤田嗣治の書き残した日記や手紙や写真は大変興味をそそるものがあった。おそらく0.5ミリ以下の太さの細字用のペンで、びっしりと生涯にわたって日記を書きつづけたりメモったりしているところは、藤田嗣治が強烈な整理魔で、画家であるにもかかわらず強靭な「デジタル頭」でもあることをいやがうえにも理解させてくれた。なんと、藤田君代夫人は6000件の日記、手稿、書簡、写真などを藤田の母校である東京芸術大学に寄贈し、大学は文部科学省科学研究費補助金基盤研究B(2012-2015)をもらって、その中身を分類整理しアーカイブ化を試みているのだそうである。今回はその研究成果の一部を開示したものだそうである。

    

  次に訪れたのは

藤田嗣治、全所蔵作品展示 東京国立近代美術館 (開催期間2015/9/19-12/13)
であった。全26点のうち、これまであまり見たことが無い藤田嗣治の戦争画が14点展示されていた。なぜこんな凄惨な戦争画を描き続けたのかという点に関しては、誰もが疑問に思うだろう。芸術至上主義的に考えれば藤田は太平洋戦争を利用して、西欧でも多くの著名な画家が書き残している戦争画の手法を用いて、単に日本国民を戦争に鼓舞するばかりでなく、歴史に残る「戦争画」の描写を練習しまくったといってもいいのかもしれない。これでもかこれでもかというぐらいヘドロチックな白兵戦の描写は、うんざりするぐらい醜悪でしつこい。しかし日本が太平洋戦争で勝利していたら、彼の絵のどれかは歴史的芸術的価値があるものとして評価され続けたのかもしれない。フランス革命のジャンヌダルクや、ナポレオン像を見れば明らかである。今日残されている主な戦争画は勝者の側からの絵画(芸術と呼べるかどうかわからないが)なのである。西南戦争の敗者である西郷隆盛が切腹する絵画は見たことが無い(どこかにあるのかもしれないが)。維新戦争の勝者である板垣退助の会津城落城の図は見たことがあるが。日本の太平洋戦争の敗戦で、戦後日本の絵画協会から藤田は戦争賛美協力の責任を問われて、失意のうちに渡仏(逃亡?)し、再び日本に帰ってこなかった。その後、彼がフランスではレジオンドヌール勲章を授けられているのが皮肉である。

    
(森敏)
付記1:映画「FOUJITA」は70歳以上は1200円、東京芸術大美術館はだれでも無料、東京国立近代美術館は65歳以上は無料、と非常にありがたかった。
付記2: なんと!藤田の父親は森林太郎(鴎外)のつぎに陸軍医務総監を務めており、森鴎外はフジタの渡仏の欲望を抑えて、まず東京美術学校(現・東京芸術大学)での基本的トレーニングをやるべしと推奨したんだそうである。黒田清輝に師事したとか。誰に師事しようとも藤田の恐ろしく繊細優美な筆致は天与のものであろうことは間違いない。


2015-10-12 07:43 | カテゴリ:未分類
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空間線量は毎時13マイクロシーベルト! 


  
     

      浪江町の原発から10キロ付近の某牧場は毎時13マイクロシーベルトの空間放射線量のもとで30頭ばかりを黒毛和牛を放牧飼育していた。単純に計算するとこの牛たちは原発爆発直後からずっとそこに居たとすると半減期30年の Cs-137 と 半減期2年の Cs-134 だけでも両者の積算で600ミリシーベルトを今日までに被曝している。爆発初期には半減期8日の  I-131 も減衰するまでにこれと同じぐらい大量に浴びただろう。目の前では、除染していない土壌に生えている牧草を食んでいるのがあきらかなので、これまでに「吸収」・「蓄積」・「排泄」と準平衡的に体内代謝されてきたセシウムによる内部被ばくも相当なものであっただろうと思われる。
   
  2011年3月の原発暴発時には多くの牛の飼い主が、避難するときに家畜を畜舎から野に放ったり、飼い主が余裕がなくて畜舎につなぎ止められたまま飼い主が去った牛は栄養失調で全頭が斃死したりした。野に放たれたものは、その後獣医師たちにより疫病による病原菌の蔓延をおそれて屠殺されたりした、などと報道されている。しかし、本人が避難するときに牛を見捨てるに忍びないと考えた牧場主たちの「預かってくれないか?」という頼みを、ここの牧場主は引き受けて、手放された牛を放牧で飼育している。岩手大学などがこの牧場と類似の牧場4カ所で連携で大動物への放射線被曝影響の研究をやっているのだそうである。畜産学会か獣医師学会がプロジェクト研究を立ち上げている。、飼料代などが少しは研究費から支援されていることになっているのかもしれない。汚染していない飼料の毎日の供給は大変だろう。白色の白いビニール袋入りの牧草が100袋ばかり道路わきに積み上げられていた。
          

我々は牧場の端で車を止めて運転手が運転で疲れていたので、皆で昼寝をしたのだが、車の中でも毎時数マイクロシーベルトはあった。遠くに1人で黙々と作業をされている人がいた。いろいろな疑問がわいたのだが、以前に浪江町で森林火災を失火で起こした人物が歩いていたので、近寄って車の中から話しかけると「ヒトに質問するときはそちらからまず名乗れよ!」と大声でどやされたことがある。かなり神経が高ぶっていらいらした様子だった。元来、われわれは放射能汚染地域で「信念」で「住んだり」「作業している」ヒト達には、向こうから話しかけられない限りは、こちらからは話かけないことにしている。われわれは放射能汚染現地では地形や川の流れを観察しながらひたすら平滑に平滑に「動物」や「植物」や「微生物」と「この場では放射能がどのように循環しているだろうか」と空想的な対話劇を演じている。
     
          
(森敏)


2015-09-15 09:59 | カテゴリ:未分類

トヨタ、MITなどとAI研究自動運転車開発

 【ニューヨーク=越前谷知子】トヨタ自動車は4日、人工知能(AI)の研究で、米マサチューセッツ工科大学(MIT)、スタンフォード大学と協力することで合意したと発表した。

 今後5年間で約5000万ドル(約60億円)を投じ、両大学に研究センターを設ける。自動運転車などの開発を加速させる狙いがある。

 両大学とは、物体認識や高度な状況判断、人と機械との協調などについて、自動車やロボットへの応用を目指す研究を進める。同日の記者発表で、トヨタの伊勢清貴専務役員は「まずは車の安全や渋滞緩和を目指し、究極的には人々の生活の質改善をゴールとしたい」と語った。

 自動運転車は、米グーグルなど他業種でも開発が進められている。伊勢専務は「あくまで運転手中心に自動運転を考えており、グーグルとは方向性が異なる。我々の研究の水準自体は十分高い」と説明した。路上での複雑な混雑状況や急な悪天候など、様々な状況に対応できる技術開発を進める方針だ。完全自動運転の実現には時間がかかるとの見通しも示した。

20150905 1441 Copyright © The Yomiuri Shimbun

 

      

  この記事を読んで、ほぞをかんでいる日本の大学研究者も多いことと思う。「自動運転車」の研究では、日本の大学の研究者達はそんなに研究水準が低いのだろうか? 絶対そんなことはないと思う。

      

  5年間で60億円の投資は工学研究部門ではたいした額ではないかも知れないが、こういう未知で先が見えにくい先端部門への高額投資は日本の文科省は及び腰である。だからこそ、トヨタのような余力のある企業が日本の大学にまず投資してもらいたいものだ。

      

米マサチューセッツ工科大学(MIT)、スタンフォード大学の有名教授との共同研究ということなのだろうが、トヨタはどういうルートで彼らが共同研究の最適の相手方だという目星を付けたのだろうか? まさか公募ではあるまい。世界に「自動運転車」のテーマで公募すれば日本の優秀な研究室が多数手を挙げたであろうことは間違いないだろう。トヨタはいろんな思惑で相手を決めたのだろうが、釈然としない。

     

企業には「利潤」という評価のインデックスが厳然としてあることは百も承知であるけれども、大企業は長期的な視野で日本の大学の底上げにも直接投資してもらいたいものだ。年々運営費交付金を減額されて厳しい段階に追い込まれている日本の大学研究者を尻目に、日本の大企業が外国の豊かな大学に資金投資する態度には少し違和感を覚える。悪しきグローバリズムだと思う。

      

  かつて20年まえに生物部門ではいくつかの食品企業がわざわざ外国大学に基礎研究の寄付講座を設けて多額の投資をしていたときがあったが、当時小生はこれには非常な違和感を覚えたことがある。これらの企業は国内の大学から優秀な学生を、よりどりみどりで獲得していたからである。日本の企業はまず日本の大学に投資して、良い研究をしてもらって、優れた研究成果を世界に発信し、その見返りに優秀な人材を獲得するという、日本国民の誰にもわかりやすい社会貢献をしてもらいたいものだ。食品系の会社は少し方針が変わって寄付講座として大学への直接投資をしているところが増えてきたが。
    
  しかし、大局的にみれば現実は真逆の傾向が進行している。大企業は産学連携と称して、大型プロジェクトを組織させ、国家予算を使って自分たちの製品開発に必要な部門に税金を投入させようとしている。そのために科学本来の「興味」(interest)に基づく基礎研究分野が細りに細っていく傾向を感じる。世界の科学界で近年あらゆる研究分野での日本人の投稿論文数と、被引用数が急速に低下していることが、先日の「科学新聞」でも紹介されている。約15年の長期にわたる運営費交付金を毎年1%削減し続けるという大学いじめのボデイーブロウが確実に効いてきているのである。
  
       
(森敏)
追記:たとえば、

平成26年から始まった安倍内閣の内閣府に新設された「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)」では「革新的燃焼技術」が採用され、杉山 雅則(トヨタ自動車() エンジン技術領域 が領域長に就任している。SIPのホームページでは

 

本課題「革新的燃焼技術」では、最大熱効率50%及びCO230%削減(2011年比)を実現するための革新的技術の研究開発を行うとともに、世界トップレベルの内燃機関研究者の育成と持続可能な産学連携体制の構築に取り組みます。この目標を達成するために、(1)高い熱効率を生み出す燃焼技術(ガソリンの場合は超希薄燃焼・高過給・大量EGR条件下の燃焼、ディーゼルの場合は急速静音燃焼・クリーン低温燃焼など)、(2)内燃機関の燃焼を自在に制御する技術、(3)損失を低減する技術の研究開発を行います。
 

とある。燃費効率が高く二酸化炭素の排出エンジン開発を、産官学の連携によって推進するのが狙いだが、これはいまや日本の自動車会社の各社が1兆円以上の収益を有する「豊かすぎる自動車産業」への屋上屋を重ねる多額の税金の無駄な投資である。そのために国立大学運営費交付金などほかの分野の研究費が削減させられていることは火を見るよりも明らかである。

2015-07-17 13:00 | カテゴリ:未分類

    昨晩、退職後14年ぶりに東大農学部教授会の「暑気払い」に参加してきた。これは要するにこの春(331日)に無事東大を退職し、名誉教授の称号を得た人たちの今後のご活躍を祝っての、先輩や現役をまじえての懇親会である。小生の実感からいうと名誉教授資格の審査はやたら厳しいが、名誉教授になっても何のメリットもない。唯一、年に一度のこのような懇親会に出て「ただ飯」を食えるくらいである。それどころか、最近は執拗に毎年大学への寄付金を仰がれる。

   

   20年以上前にはやせていて精悍な助手(現在の呼称は助教)だった人たちがいまは現役の教授であったり、すでに退官されていたりする。現役のみなさんのおなかが出て少し太り気味なのが大いに気になった。メタボ症状ではないだろうか? デスクワークの激増が主な理由のようであった。切れ目のない研究費獲得のための申請書の作成や、学内外での自己や他人の「研究」や「教育」評価書の作成等のための作業で忙殺されているのであろうと推察した。そのために、皆さんあまり自ら「試験管を振る」時間が無くなっているようで「そんなことでいいのだろうか?」と少し心配になった。実験系の研究者は、自分自身による現象の観察が重要で、そこにこそオリジナルな発見の契機があると小生は信じるからである。余計な心配かもしれないが研究テーマが先細って行かないことを心から念じた。

   

退職名誉教授の多くが小生と同じく健康管理に気を付けておられた。そのことは、年齢による日々のどうしようもない体調の現象が、切実な現実問題であるからでもある。毎日の積極的な、歩き、整体師通い、ジム通い、などいろいろと工夫されていた。この「暑気払い」に出てこられていた退職教員たちは全体の5%にも満たないだろうから、むしろ出て来ておられない方々の健康が他人事ながら心配になった。小生もこれまで14年間でてこなかったので、何かといろいろ言われていたことだろうと思った。

   

退職して完全に雑用から解放された某先輩名誉教授が「ガロアの群論」の解法の研究をしていると聞いて、驚愕した。若い時から数学が強かった人は年をとってもなかなか頭が強靭なのだと思った。話が少しそれるが、太田朋子氏(国立遺伝顕名誉教授・東大農学部卒。81歳)が『分子進化のほぼ中立説』で、つい最近クラフォード賞(9000万円)を受賞されたのだが、その理論のご本人による説明が4ページにわたって学士会会報7月号にのっている。またネット動画で授賞式の講演が1時間にわたって放映されている。しかし彼女の説明には一切数式が使われていない。言葉でのみ説明が行われている。でも小生にはチンプンカンプンである。この理論の背景には深遠な数学が使われていることは素人の小生にも匂いを感じられた。実に数学のできる人は長生きするのだなと思う。(ガロアは若気の至りで20歳で決闘で死んだが)。
  
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クラフォード賞で受賞講演する太田朋子国立遺伝研名誉教授(動画からのパクリ)

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小生には理解不能な太田理論 (動画からのパクリ)
 

皮肉にもこの暑気払いの日の716日は安保法案(野党によれば[戦争法案])が強行採決により衆議院を通過した。この日は日本の憲政史上に汚点を残した「立憲政治の崩壊」の日と記されるだろう。安倍内閣は日本国が憲法という体系的な法律に基づく運営を行わない行政府や軍部の暴走を許す国になる道を拓いたかもしれない。並行して行政による一方的な現在進行形の <原発再稼働> の動きが、まさにその暴走の顕著な「表現型」である。

 

名誉教授の某先生は昨日の安保法案通過に反対するために一昨日は国会議事堂のデモに参加したとのことであった。「女性が多いのにびっくりした。しかし若者が少ないのにがっかりした」とのことであった。昨日の昼の衆議院での採決を自宅でテレビで見ながら小生も「ここまで長生きすべきでなかった」と感じた。デモなどに参加すればいっぺんに体調を崩すので行かなかったが、1960年の619日に岸内閣が強行採決した「日米安保条約」自然承認の日の国会議事堂前での徹夜の座り込みが走馬灯のように浮かんできた。白々と夜が明けて来たときの敗北感はいまでも忘れられない。当時、国会周辺に総勢5000人以上いたその東大生や教職員は、今皆さん小生と同じ心境だろうと思う。
    
(森敏)
追記: 学会や退職後の再就職で中国に出かける人も多くなった。彼らの中国に対する印象は、様々である。共通していることは「日本の10倍の人口であるので、急速に世界水準に学問レベルが挙がってきており、部分的にはすでに日本を凌駕している」というものである。台湾や香港のように、「100年後にはいずれ日本は中国の一省になるか、アメリカの一州になるかの決断を迫られるかも知れない」というのが実は小生の危惧する所なんだが。

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