2015-01-26 14:44 | カテゴリ:未分類

ジャーナリストの後藤健二氏が「紛争地域の貧しい人に<寄り添いたい>。 何が起こっても責任は私自身にあります」と言って、出かけて、「イスラム国」に拉致され命の危機にさらされている。(現時点ではこの言葉が彼の精神の深層を正しく反映しているかどうかは分からないのだが、「寄り添いたい」と言う言葉の例として取り上げてみた)。心底から救出されることを祈っている。
 

  

様々な過去の公害問題や近年でも地震、津波、原発事故などの避難者に対して、支援に関わる人たちから「被害者に寄り添いたい」という情緒的な言葉がよく使われてきた。

  

実際にいろいろな支援運動に参画してみればすぐに分かることだが、環境の激変により人生を根底から覆された人たちに、個人的にアカの他人が「寄り添うことは」かなりの困難を伴うことである。「寄り添い続けること」はさらに困難である。場合によっては寄り添った人の人生も激変させられることになるだろう。寄り添う本人が泥沼から抜け出られなくなり、迷走することになるばあいも多々ある。
 

  

いわゆる市民運動が最初は同情的な情熱で盛り上がっても、あまり長続きをしなくて、下火になるパターンを描くのは、運動のプロ(組織政党集団)でない限り、「寄り添う」支援者自身の生活が時間的にも資金的にも体力的にも永久には続くはずがないからである。
 

  

多くの有名ジャーナリストや写真家の場合は危険を冒して普通人が近づけない危険地域に入って紛争の実態を暴く、つまり誰も知らない「価値ある希少な情報」(プライオリテイー争いで機先を制する)を何らかの形でマスメデイアに売ることによって経済的基盤が確立しているので、ある意味では寄り添える様に見えるのである。この場合でもバックに政府資金や政党からの隠れた資金があれば安心して「寄り添える」だろう。
 

  

これに対して普通の市民は、よほどの持続する資金的な支援体制がないと、生真面目な人ほど自分自身が体力・時間・資金的にボランテイア活動でへとへとになるのがオチである。
 

   

だから最初から分をわきまえて、自分自身が経済的にも精神的にも体力的にも再生産可能な持続的な支援活動が出来る範囲で「寄り添う」ことが賢明な寄り添い方である。本気で被災者や被害者が「立ち直る」まで寄り添うつもりなら、支援者自身が政治のプロか、政策や技術者としてのプロとして寄り添わねばならないだろう。裁判などになると日本の場合は通常10年以上寄り添うことを覚悟しなければならない。
 

   

以上は、若いときに無意識に様々な「孤立した弱者支援」に15年以上「寄り添って」回り道をしてきた小生の研究者人生からの述懐です。
 
   
(森敏)
追記1:後藤健二氏は、ISILに殺害されたと、本日早朝に報道された。(2月1日).
小生はその斬首の経過をネットで見る機会がなかったが、凄惨な様子は、各種週刊誌が詳細に報じている。(2月9日)
 
追記2。 東京新聞が「::::::::アフガニスタンで武装組織にとらわれた経験がある常岡浩介氏も、(大手)メデイアとフリーランス(取材記者・カメラマン)のすみわけを容認する。「大手メデイアに危険地帯の取材をされると、僕らの仕事がなくなるのでやめてほしい。」。その上で、「昨年は3回、『イスラム国』の取材をしたが最初の2度はテレビ局に扱ってもらえなかった。ウクライナ紛争は2回、戦場まで行ったが 『視聴率が取れない』と買ってもらえなかった。::::::::」(東京新聞 2月9日朝刊) と述べている。ここではフリーランサーが命を賭けて撮影した危険地帯での「見る人の心臓をえぐる映像」が高付加価値の「商品」として大手メデイアに販売される期待を正直に述べているわけである。避難民や戦災者に「寄り添う」とかいうことはフリーランスにとっては「とってつけた美談」でもありうることがわかる。

追記3:この常岡浩介氏も2015年5月にトルコから消息を絶っている。拉致されたに違いないが、情報がどこかで遮断されている。生きて帰ることを祈りたい。(2016年2月10日 記)