2017-11-06 11:48 | カテゴリ:未分類

          銀河鉄道の父 門井慶喜著 講談社を9月13日に発売されたことを知って読んだ。この本は一見小説風になっているが、宮沢賢治の父親である「宮沢政次郎の目を通してみた賢治像」という構成になっている。会話調が多いのですらすらと読めた。
  
  小生はこの本を入手する直前には、近所の図書館に「宮沢賢治の真実」修羅を生きた詩人 今野勉著 新潮社 を今年2月に出版されたときに回覧を頼んでいたのだが、偶然順番がまわってきたのでそれを入手して、読み終えたばかりであった。こちらのほうは主として賢治の詩作に関して忠実に文献考証をした、力作の論考で、読むのには少し時間がかかった。

 

35年前の我が家の書斎の壁には、当時花巻の山頂にある宮沢賢治記念館で購入した

『雨ニモマケズ、

風ニモマケズ、

:::』

という、超有名な賢治が病床で手帳に書きつけた詩を拡大コピーしたのをピンで留めていた(確か500円ぐらいだったと思う)。当時はなにかと心に余裕がなく、賢治の、ほかの詩や、童話や、芸術論などは読んでもあまりピンとこなかったのだが、この詩だけはわかりやすく、文学に疎い小生にもすっと理解できたからである。それに、この詩は小学校時代の教科書にも載っていたので懐かしくて記念館で購入したのだった。

 

  その後も、賢治の数多くの詩作や童話に関しては、それこそいろいろな解説本(今ではたぶん全部で2百冊以上!!)が続々と出ていたのだが、あまり読む気がしなかった。およそ「近代詩」というものはきわめて主観的なものなので、作者の個人史的な時代背景説明がないとほとんど理解できないという確信に近いものを今でも持っている。だから今回の著作 「宮沢賢治の真実」修羅を生きた詩人 が、賢治のいくつかの詩作を賢治の保阪嘉内との「同性愛」という視点から執拗に分析し文献考証しているのには新鮮で感嘆した。小生が知らなかっただけなのだろうが。

  

長じて、賢治の詩である「永訣の朝」や「無声慟哭」などが実にインパクトのある詩作だという評判が聞こえてきたので、作詩の背景がずっと気になっていた。実際のところ、この詩の背景にある、妹のトシと賢治の関係はどうなっていたのだろう?

 

ところが、今回上記の二つの本を読んで、賢治とトシの関係が真正面から論じられていることにいささか感動した。トシが結核で死ぬる場面は、立ち会った父母兄弟など家族たちの残した証言集から時系列的といってもよいぐらい上記の2冊ともに詳細に記述されている。
 
  だが、その家族からも見えない賢治とトシの心の内面を、奇しくも二人の著者は想像をたくましくして力を注いで論じている。それがその時賢治が書いた「永訣の朝」や「無声慟哭」の詩の解釈とともに、なかなかの迫力で迫ってくるのである。読んでいて、長年の疑問が少し氷解した。

 

賢治が本格小説ではなく、わかりやすく楽しい「童話」をなぜ書いたのか、という疑問に関しては、愛する妹のトシが結核のために女学校の教師を辞めて、自宅の隔離別棟に長く病床に臥しているときに、一緒に寝泊まりして新作童話を読み聞かせて、その都度批評を仰いだという場面が描かれていて、納得した。賢治は農民にもわかりやすいお話を童話という手法を用いて書いてトシにチェックしてもらうのが楽しくて仕方がなかったのであるそうな。

   
    

(森敏)
 

付記1:賢治の在籍していた現在の岩手大学肥料学教室に、賢治と時代が交錯していないが同じく在籍していた亀井茂技官は、土壌肥料学的な観点からの、賢治研究の大御所ともいえる人物である。彼は正確で緻密な文献考証による多くの「賢治研究」の著作をものにしている。これらの著作をあまり文学者や詩人は賢治研究に引用していないようだ。小生は亀井氏からいつも彼の文献をいただいていたので、賢治のあらゆる発想の根源が土壌肥料学的知見に基づくことを理解していたつもりであった。

 

賢治の個人史に関しては、賢治は盛岡高等農林学校の関豊太郎教授(1927年 日本土壌肥料学会初代会長)の卒論生だったが、関教授の土壌学教室に研究員として残り続けるといずれ助教授になれたかもしれないのだが、きっぱりと研究者への道を断念している。「土壌分類学や土壌の化学分析が実際の農業に役立つと思えないので、大学に残ることに魅力を感じない」という由を父親の政次郎宛に手紙を書いている。しかしドイツ帰りの気鋭の関教授のもとで、短期間ではあるが卒業後も研究生として土壌調査に加わって、正統な学問の本質(エッセンス)をかじったであろうことは、想像に難くない。その時獲得した「現場の風景を天文学・気象学・地質学・腐植や粘土鉱物学的な発想で解釈する」という土壌分類学の研究の方法論は、彼の童話や詩作の骨肉を形成しているといっても過言ではないであろう。こが賢治の作品が通常の詩人や作家と異なる異才を放つゆえんだと思う。(土壌肥料と宮沢賢治2 一関豊太郎と宮澤賢治一 亀井 茂 日本土壌肥料学雑誌 第67巻第2号 p213-220(1996) 参照)

 

付記2:「永訣の朝」の全文は下記のWINEPブログ記事にてもご参照ください。

2016/11/08 : 宮澤賢治の詩と高村光太郎の詩に寄せて

 

2017-10-24 08:45 | カテゴリ:未分類
以下の直近のNNNの番組は実に秀逸です。
   
小生は立て続けに2回繰り返して見ました。
     
全編涙を禁じ得なかったです。
      
    
2011年3月の東日本大震災の時に被災地への物資支援をした『トモダチ作戦」で、東電福島第一原発のメルトダウンを知らされずに、日本近海太平洋沖で放射能プルームの真っ只中を迷走した
    
「原子力空母ドナルドレーガン」の当時の船内の迫真の状況や、
      
当時放射能被ばくした多くの兵士のその後の壮絶な体調変化や、  
   
彼らがついに東京電力を訴える裁判に至る過程が、
    
原告兵士たちへのインタビューで迫力をもって紹介されています。
     

http://www.dailymotion.com/video/x63roud
   
   

是非ご覧ください。
    
    
 
(森敏)


付記:この映画を見れば、福島での原発周辺市町村での、人および野生生物への放射能による大量初期被曝が、その後の自然生態系に及ぼしているであろう影響を、普通の生物学研究者なら容易に想像することができます。 今、現地に入ってもなかなかその激甚な変化は見えませんから、一見過去に何事もなかったように思われるでしょうが。
2017-10-12 05:23 | カテゴリ:未分類

        この映画は新聞やネットでの宣伝では中身がよくつかめなかったのだが、観てよかったと思う。

    

1960年代の第一次安保闘争世代では、フィデル・カストロとともにキューバ革命を成功させたチェゲ・バラは今でも圧倒的に人気があるのではないだろうか。彼はボリビアでの革命運動でのゲリラ作戦の最中にとらえられて射殺されたが、その時のグループの中にボリビア出身の日系人(ゲリラ名エルネスト)がいて、同じくとらえられて射殺された。そういうことはこの映画を見るまで小生は全く知らなかった。

      

現在キューバのゲバラの霊廟にゲバラとほかの同志とともに壁面に彼のパネルが張られていることが映画の最後に紹介されていた。

      

主役俳優のオダギリジョーの抑えた演技が光っている。以前の藤田嗣治画伯の映画では、彼の演技はあまり感心しなかったが、今回は実にいい。ネット情報ではこの映画の演技のために彼は体重を15kg近くも減らしたとのことである。なかなかできる芸当ではない。相当の入れ込み方だったのだろう。実に演技が自然体で、スペイン語も流暢で、すばらしかった。

       

カストロとゲバラの決起したキューバ革命の事をあまり知らない人がこの映画を見ると、これはキューバ革命賛歌と単純にとらえたがるかもしれない。だが、全くそうではなく、主人公はキューバ革命後に青雲の志を抱いて、ボリビアからの奨学生として、キューバの医科大学に留学していた。だが、その最中に母国ボリビアが暴虐の政権に見舞われて、医学の道を捨てて、もともと医師であったエルネスト・ゲバラの影響を受けて、自分も祖国ボリビアの革命運動に身を投じて、1967年9月に25歳でゲバラとともに革命運動に殉じた短い期間だが若き日系青年の生長物語である。

          

先日ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロも5歳の時に父親とともにイギリスに渡って帰化した日系で、先進国イギリスで若いときは昨年ノーベル文学賞をもらったボブデイランなどの音楽にかぶれてミュージシャンになろうかなどと、非常に揺れていたようだが、一方で、ボリビアという最貧国で鹿児島から父親が移民として渡ってきた若き日系二世実名「フレデイ・前村」は、未完の大器だったのかもしれない。この映画で名が後世に知れて本当に良かったと思う。

        

2時間弱の長丁場だったが、足の痙攣をさすりながら抑えつつ鑑賞した。
    
  映画が映わっても、みんな無口であった。席を立たずにハンカチで涙をぬぐっていたご婦人も何人かいた。
   
  なぜか、医学の道を目指して日本に中国から留学して小説家に転じた「魯迅」のことなども思い出した。  
   
     
(森敏)

2017-10-05 06:31 | カテゴリ:未分類

   昨年の春、浪江町昼曽根で、運転手が大事を取って居眠りしている間に、そこら辺をぶらぶらしていると、灌木にまつわりついている、小さないばらのつる性植物をみつけた。小さな花器の花びらが散って、実が付いて太りかけていたので、切りとってきた(図1)。ニガイチゴというのだそうである
 
  
花器に強く放射能が濃縮していることがわかる(図3,4、5、表1)。これまでの経験から総じて植物のいろいろな組織の中では、花器部分にセシウムは濃縮する傾向が顕著である。このことは先日の日本土壌肥料学会で、ニガイチゴの例も含めてポスターで発表しておいた。

  

     

ニガイチゴ1

  図1 ニガイチゴ




    
ニガイチゴ1kakudaizu jpeg
   
   図2.ニガイチゴの拡大図
 
 
 
ニガイチゴ3 
 図3. 図1のオートラジオグラフ(ポジテイブ像)

 





     
    

 ニガイチゴ4

  
図4. 図3のネガテイブ画像。
 
 
スライド2 


 

 図5。図3の部分拡大図(図2に対応)のオートラジオグラフ






表1.ニガイチゴの放射能
  

 ニガイチゴ5


 

(森敏)

付記1:植物の同定には(株)アスコットの若林芳樹社長のお世話になりました。
 
付記2:花器などの生殖器へのセシウムの集積に関しては、先日の日本土壌肥料学会でまとめて発表しました。その時のポスター発表(P-8-1-17)の講演要旨は以下の通りです。


放射性セシウムは花器に濃縮される

森敏・加賀谷雅道2・広瀬農3・小林奈津通子3・田野井啓太朗3・中西啓仁

NPOWINEP 写真家 東大農・アイソトープ施設 東大院・農学生命科学)

 

2011年3月11日の東電福島第一原発事故以降、ほぼ毎月汚染が強い避難困難区域に現地入りして、6年間にわたって様々な植物を採取して、放射能汚染のオートラジオグラフを撮像してきた。1986年のチェリノブイリ原発事故でもX線フィルム(当時はBASがなかった)撮像は実に希少である。BASが使える現在でも世界の植物学者はチェリノブイリでの植物の撮像に興味がないのか報告が少ない。したがってわれわれは今回の福島原発事故の場合は経年的に様々な植物のBAS撮像数をこなして、福島で起こっている固有の植物生態系汚染の傾向をつかむことを目指している。その結果、落葉樹では落葉によって葉が入れ替わることにより、新葉の放射能については2012年以降は激減した。しかし幹や枝の部分には当初の原発由来のホットパーテイクルがずっと残留したままであるので新葉の放射能の一部は、経根吸収分ばかりでなく幹や枝の樹皮部分からの転流分が含まれている可能性を否定できないでいる。一方、一年生の双子葉植物は2011年当初からも下位葉が風雨時の土ぼこりによる外部汚染を受け続けている。しかし内部被ばくは土壌放射能由来のものに限定されてきており、放射性セシウムの土壌への固着が進行しているので、植物体地上部全体としての放射線量は急激に減少している。これまでは地上部と地下部に分けるとか,新葉と旧葉にわけて、放射能分布を比較していたが、2015年秋からは、秋になって花が咲いて種子ができている植物を採取して、そのまま放射線像として撮像する作業を始めた。その結果意外なことに花器として、あるいは種子そのものとして、放射能が高い濃度で検出されることが改めて分かってきた。タケニグサ、ハナタデ、スイカズラ、ホウセンカ、イラクサ、ノジギク、ヒノキ、マツ、ナギナタコウジュ、ドクダミ、コセンダングサ、タンポポ、ツクシなどについて放射線像を報告する。

 

2017-09-22 06:39 | カテゴリ:未分類

  仙台(東北大学青葉山新キャンパス)での日本土壌肥料学会の合間をぬって、風光明媚な観光地「松島」を約10年ぶりに訪れた。遅まきながら、震災の後の復興状況を一目見ておきたかったからである。

 

  東日本大震災「復興地蔵堂」 というのが遠慮がちに、4メートル四方の仮の台座に建てられていた。その中には京都の佛師富田睦海師による地蔵菩薩(瑞巌寺起雲軒老大師により悲母地蔵と命名)が安置されていた。(図、1,2,3)
  

 スライド1
(図1)復興地蔵堂への案内 
     
 
スライド2 
(図2)復興地蔵堂
       
 
 スライド3
(図3)復興地蔵堂の中の新創作「悲母地蔵」
     

  まずもって、てっきり「透かし橋」で海岸からすぐつながっている孤島の上の『五大堂』は津波をかぶっていただろうと思ったら、まったく健全だった(図4)。この島の高さは海水面から3.5メートルばかりと思われた。茨城県の海岸際の岡倉天心の建てた有名な六角堂は東日本震災の大津波で消失したと報じられたので、ここの岸辺の絶壁の「五大堂」もあわやと思っていたのだが。。。これは実に意外だった。
 
 

 スライド4
(図4)津波が上昇せず健全だった「五大堂」 
         
   

  そこでつらつら思うに、そこから海を遠望すると松島海岸は沖合のあちこちに島が美しく点在しており、きっとこれらの島々が津波を複雑に ”干渉”して打ち消し合って、あたかも強い緩衝能の防波堤の役割を演じたのだろうと勝手に解釈して納得した(図5)。見えない海底にも小高い山が障壁としてきっと林立しているのだろう。(後に、以下に示すようにネットで調べると、宮城県では、女川漁港では14.8メートルという最高の津波に襲われたがここ松島町では2.9メートルで済んだということである。(図6)
   
松島沖 
(図5)五大堂から松島沖合を望むと数々の小さな島がある。観光船のフェリーボートがが絶え間なく行き来している。
            
 
津波の高さjpeg 

(図6) 図録 東日本大震災で確認された津波の高さ  より転載. 松島町は最下位であることがわかる。 
            
  

  沿岸では、まだあちこち堤防の修復などが行われていたが、その高さが、海水面から3メートルもないのにはいささか驚いた。上図に示すように、東日本大震災の経験から、将来もここ松島海岸では高さが3メートル以上の津波は来ないと考えているのかもしれない。
      
  高さ2メートルばかりの「震災記念碑」は、堤防工事の邪魔になるからなのか、道路わきの実に目立たない片隅に佇(たたず)んでいた(図7)。この謙虚すぎる展示の仕方のせいか、通行人の観光客のほとんどは気が付いても何気なくさっさと通り過ぎていくようであった。

            
   
スライド5 
(図7)東日本大震災慰霊記念碑 から  海岸沖を遠望する。堤防は工事中
            
   

  昔、文科省のプロジェクトの研究会で参加した海際の「松島センチュリーホテル」は、ホテルマンによると、「津波で一階が全面浸水して、名画が全部台無しになった」、けれども、地震でホテルが倒壊することはなかったようで、亀裂などは、外壁が塗りなおされていて、どこまで津波で浸水したかの跡かたがなかった。二階ロビーの壁面の日本画家の「片岡球子(かたおかたまこ)」さんの名画は健在だった。飛び入りだったが、誰もいないここのロビーで450円の飲み放題のコーヒーなどをいただいて、広大な全面ガラス越しに、美しい海をしばらく堪能した。
                
  「津波が来たら高台へ避難せよ」という意味の絵のパネルが道路の電柱の高い位置に掲げられていた。これは、来るべき関東・中部・南海大震災に備えて、これらの沿岸域の低地の、あらゆるところに今すぐにでも掲げられるべきパネルだと思われた(図8)。
    
スライド6

(図8) 「津波が来たら高台へ避難せよ」 の表示パネル

       
   
  以上、急ぎ足の感想です。  
    
(森敏)
付記: 伊達正宗が再建(1609年とか)の瑞巌寺は裏山の登り口にあり、海抜10メートルぐらいか? さすがに過去の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年)などの幾多の津波を経験した結果の位置決めと推察した。
        
追記: 昨日の報道では、きたるべき「巨大地震の3日前からの予知などできない」という最終的な結論が出たようだ。延々50年間以上にわたって予知連にむらがる地震学研究者たちは、「地震予知はできる」と「ホラ」を吹きつづけて巨額の研究費を消費してきたことになる。
            
これは「原子力の平和利用」で50年間以上にわたってを国民を欺いてきた結果、東電福島第一原発事故(メルトダウン)を起こした「原発マフィア」とあまり変わらない科学技術者の精神構造だ。(20170926 記)

   
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