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2020-04-04 13:11 | カテゴリ:未分類


  言問(こととい)通りに陸橋があり、そこは昨年いっぱいかかって建て替え工事があった。

  その下を歩いていると、橋の直下の車道脇に一株のタンポポが旺盛に生えていた。

  よく見ると、蕾と花で合計30本ばかり抽苔しており、細い葉が65本ばかり異常に多く、一本だけ、奇形の太い花茎が抽苔していた。(図1に赤い矢印で示している) 茎の基部から切り取って見るとこんな感じ(図2)であり、数本花茎が合体すなわち帯化(たいか)している。


  花茎の頭の方から見ると8本ばかりの茎の合体であることがわかる。

  今年は、小生は足腰が劣化している上にCOVID-19(武漢ウイルス)のせいで、電車に乗るのが怖いので、いつもの近郊の奇形タンポポ多発地帯への定点観測地にまだ出かけていないのだが、意外にも身近に奇形のタンポポを今年初めて見ることができた。

  この図1の車道脇は橋梁工事のために何度も道路がはがされては埋め戻されたりしていたので、このタンポポは明らかに、昨年どこかから飛んできた種子が発芽して大きくなった一年めの植物と思われる。

  このタンポポの生え方は、あらゆる意味で、小生が、野生の奇形タンポポから採取してきた種子を、研究室の人工気象室で約半年かけて育てて、発生した、奇形タンポポの生え方と酷似している。




たんぽぽ全景1 
図1.車道脇の奇形タンポポの株。わかりにくいが赤矢印tが奇形の花茎。道路側の黄色は駐車禁止ライン。手前は人道側の鉄柵。
たんぽぽの生えてているところは頭上の橋の上から、水が落ちてきて流れ込む、比較的水の供給が豊かだと思われる。


 
 
  
 
 
 
スライド3 

図2.図1の奇形の株を切り取ったもの。生長しているうちに合体した花茎がてつぃ亀裂が入っている。 
 
 

スライド2 

図3. 図2の花茎の多頭を裏側から見たもの。 この後生長していくと、黄色い萎れた花弁が散って、一気に綿毛となるはずのものである。
 
  
 
(森敏)
   
付記: 本件に関しては、以下のポット試験の結果の口頭発表原稿をご参考ください。

タンポポの帯化遺伝子は次世代に遺伝する

森敏・中西板井玲子・安彦友美・森淳・山川隆・丹羽勝・中西啓仁
2016年9月 日本土壌肥料学会講演要旨集)
  
  
追記1: 4月9日には、東大農学部正門を出て左側に通称「弥生の交番」があるが、その近くの銀杏の木の下に、昨年と同じく、今年も奇形の帯化タンポポを見出した。よく見ないと判別できないが(図4赤い矢印)、接写すると図5のようで、前述の図3に酷似している。ただしこのタンポポの株は葉の数葉12枚、茎の数は6本と少ない。黙って通り過ぎると見れども見えずである。この株は銀杏の街路樹の踏圧防止用鉄版の枠の下から生えているので、年中保護されており、昨年と同じ奇形株のものと思われる。
   

 
スライド1 
図4.左は本郷通り。赤い矢印の先が帯化タンポポ。 
 
スライド2 
図5.図4の拡大写真
2020-03-24 17:05 | カテゴリ:未分類
  今日は東大の学部生の卒業式だったらしい。
   
  安田講堂の前を歩いていると、代表のみが参加した卒業式が跳ねた後らしく、学生が群れて安田講堂をバックに写真を撮っていた。父兄は参加禁止だったらしくて、あまりいないようだ。
   
  さすがに記念写真には着物やガウン姿にはマスクは似合わないからなのか、ほとんどの卒業生はマスクを着けていない。
       
  この後、研究室などの閉鎖空間で研究室員が密集して送別会のパーテイーをやって、彼らが互いにCOVID-19感染者にならないことを、切に祈りながら、そばを通り過ぎた。

    
    



卒業式1 
  
   

(森敏)


追記1: なんと!この記事を書いた直後に


本学情報学環の教職員が新型コロナウイルスに感染していることが判明しました。


というメールが飛び込んできた。


https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/general/COVID-19-20200322.html


日ごろからなんとなく東大の緊張感が足りないと感じていたが。

   
きちんと検査すれば、もっと感染者がいるに違いない。

   
いよいよCOVID-19が身近に迫って来た。


学内がカオスにならなければいいのだが。
 
追記2.案の定、他大学だが、学生がコンパで感染している。それを日本中にばらまいてしまった。今日(こんにち)の大学生の想像力と教養のなさにはあきれ返る。スマホばかりいじっていて、政府や自治体からの警告が若者には浸透していないのだろう。
       
2020年3月29日 21時08分
  朝日新聞
京都市は29日夜、海外渡航をした京都産業大(京都市北区)の学生ら4人について、新型コロナウイルスの感染が確認されたと発表した。いずれも20代男性で、軽症という。京都府内で感染が確認されたのは44人となった。

 市と同大によると、4人のうち1人は2~13日、同大の学生3人と欧州旅行(イギリスやアイスランド、スイスフランススペイン)に参加していた。同行した3人のうち2人は、すでに愛媛県石川県で陽性と判明。残る1人は検査の結果、陰性だったという。

 また、愛媛県で陽性が判明した学生は21日、ゼミの卒業祝賀会に出席していた。同席していた学生らのうち、市内在住の3人の陽性が判明した。
  
   
追記3:東京大学でも2人目の患者が出て工学部と法学部の建物がロックアウトされ、全学への入構が厳しくなり、身分証明書の提示が義務付けられた。実験系は不要不急の場合のみとなりつつある。(4月8日現在)

2019-09-11 14:34 | カテゴリ:未分類

     小生は、中学生のころは、六甲山のシダ植物を50種類ばかり採取して押し葉にして、夏休みの理科の宿題として提出したことがある。その時は牧野富太郎編集の「牧野植物図鑑」が最高の指南書であった。押し葉の標本にラテン語の学名を付すのでなんとなくアカデミックな気分を味わえた。
 
  灘高では、生物は1年生の時だけ授業があったが、この生物の教師は牧野富太郎の弟子とかを自称していて、フィールドワークには強いということであった。しかし、灘高では野外実習がなかったので、この教師の特技を学べなかった。この生物学の授業は何をしゃべっているのか脈略がなく、教師の不勉強が顕著でつまらなかった。

 

  その後、駒場の東大教養学部では湯浅明教授の授業を受けたのだが、これがまた最初から最後まで生物の分類学で、分類名や種の名前をラテン名で黒板の全面にずらずらと書くという教え方で、本当に何の感動もなかった。睡魔が襲ってきて、分類学がすっかり嫌になった。しかし、同期の某君等は、期末試験の時に「先生、回答用紙は何枚書いてもいいのでしょうか?」などと、えんえん「生物進化」に関する回答を書き連ねていたので、彼我の知識量の差に圧倒された。一方生理・生化学などの授業はクラス担任の菅原先生(お名前は忘れました)が教えていたが、この先生の専門はウニの発生学ということで、生化学がとんと弱かった。柴谷篤弘などが紹介する当時台頭する分子生物学をフォローできていなかったのだと思う。

  本郷の農芸化学科に進学してからは植物栄養肥料学(三井進午教授)研究室では選択的除草剤の研究を石塚皓造助手(現筑波大学名誉教授)が行っていたので、田畑や大学構内の雑草の名を 当時めずらしいカラー印刷の「日本原色雑草図鑑」とにらめっこで必死で覚えた。が、記憶力の悪さに我ながら嘆息した。その時覚えた雑草の名前が最近はほとんどすぐには思い起こせない。
     
  三井研究室では現地見学を兼ねて、毎年夏休みには、泊りがけの研究室旅行をしていた。ある年に埼玉県の国立の北本農業試験場(現在は廃止されている)を訪れた。この時は出井(名前は忘れました)場長ご自身が場内を案内してくれた。出井さんは土壌肥料学が専門だったのだが、この試験場では当時の流行の試験研究課題として、水田や畑の作物は殺さないが、雑草のみを殺すための「選択的除草剤」の開発試験もされていた。現場での説明では雑草の名前が彼の口からすらすらと出てくるのに感心した。「出井さんは水田雑草などの植物の名前をどのようにしておぼえられたのですか?」と伺ったところ、「はずかしながら、自分が知らない雑草は小学生の自分の子供の夏休みの宿題にして、子供と一緒に採取して押し葉にして、学名などを覚えたんです」という返事が返ってきた。偉くなっても地道に苦労されているのだなーと感動した。
          
       

     このように 草花や動物の名前を覚えるには、徹底的に幼少の時からきちんとした博物学の教師に連れて行ってもらって、生きている現場で学ぶことが重要であると痛感しているが、もう遅い。
              

  名古屋大学の植物栄養学教室の教授であった谷田沢道彦先生(故人)は、東大農芸化学科の出身だが、若い時にイギリスの国立公園「キュー・ガーデン」に留学しておられて、土壌肥料学会のエクスカーションなどでいっしょになると、そこら辺の雑草の名前をラテン名で諳んじており、次から次へとメモに書いて、小生に見せてくれるほどの博覧強記であった。分類学者でもないのにこの先生の頭の構造はどうなっているのだろうと驚嘆したものである。先生は、生前に自分が持っている「貴重な数多くの植物分類の原書などをどう処分しようか」などと悩んでおられたが、その後どうなったのかは知らない。

 

  原発の放射能汚染地帯の調査に行くと植物の採取も行うので、必然的に学名を正確に同定しなくてはならない。ほとんどが通常の雑草や樹木だから、ほぼ同定の間違いは起こらないはずだが、最近は名前がすらすらと出てこなくなった。とくに樹木は持ち帰った葉の形や種子だけでは分類が難しい。だから専門家に同定していただいている。

 

  先日本屋をぶらついていると、以下の文庫本が4冊が同じところに置かれていた。本屋さんの販売戦略だとは思ったのだが、この4冊を買って日本の普通の身近な植物をどのように表現しているのか、どれが素人に一目で分かりやすく描けているか、などを比較検討してみることにした。

 

新編 百花譜百選 木下杢太郎画/前川誠郎編 岩波文庫

柳宗民の雑草ノート 柳宗民 文/三品隆司 ちくま学芸文庫

シーボルト 日本植物誌 大場秀章監修・解説 ちくま学芸文庫

身近な雑草の愉快な生き方  稲垣栄浄 文/三上修(画)

  一番親しみが持ててわかりやすく描かれていると思われたのは「百花譜百選」で、木下杢太郎が 東大の皮膚科の教授でありながらこれらの絵をまさに第二次世界中(昭和18年3月から年-20年7月)の間に描いていることに一種の感慨を覚えた。それらの絵には寸書きがあり、身近な出来事やあるいは戦時の局面が抑制的に記載されている。東京の空襲下で、食糧難である上に、深刻な胃腸病で本人が衰弱しつつあるのに、1種類の草木を何時間もかけて描く執念の深層心理ががどこにあったのだろうかと、描画を見ながら深く考えさせられるものがあった。戦時でほとんど戦況については絶望的心境にあったのではないだろうか。小生は20年以上前に、伊豆で科研費の会議があって、いちど医学部の友人の案内で伊東市にある木下杢太郎記念館を訪れたことがあるが、その時は木下杢太郎は単なるデイレッタンではないか、としか印象がなかったのだが、実際は才能が溢れすぎる人材だったことが、前川誠郎氏によってこの本の「あとがき」に記されている。 


(森敏)
付記1:
文藝春秋2015年4月号に「本草学の現在」というテーマで 前掲のシーボルトの本の監修者である大場秀章東大名誉教授が以下に述べている。
::::高等教育研究機関である大学では、設立当初日本の生物相の解明を大きな研究課題に据えたが、第二次世界大戦後は消滅は免れたものの気息奄々(きそくえんえん)の状態が続いた。その余波といっては語弊があるかもしれないが、多様性研究を担う施設の博物館さえあわや不要の烙印を押されそうになったこともあった。:::::::

  つまり東大理学部植物学教室や他の大学からも、新しい生理学や分子生物の台頭に抗しきれず、早々と分類学の講座が消滅してしまったようである。しかし現在では付属博物館や付属植物園の教員が分子生物学と形態学をドッキングした新しい研究領域に気を吐いて、世界的な研究成果を挙げつつあるようである。


付記2. 上記の記事は2015年に書き留めていたものに若干手を加えたものです。

 

 

 

2019-08-13 10:46 | カテゴリ:未分類

「群青」江川友治先生の生涯 
「群青」(続編)江川友治先生の生涯
  

(明治大学農学部江川研究室OB会編集。著者江川友治。協力者江川浩子。前者は 2015年5月23日発行、後者は2018年7月14日発行)

 

という、2つの冊子体(全部で44頁)の寄贈を受けた。

 

この本に記されている、江川友治さんの経歴を略記すると、江川さんは1941年3月に東大農芸化学科生物化学専攻を卒業して、当時西ヶ原にあった農業技術研究所の三井進午技師の部屋に配属された。この年12月8日に日本は真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入した。翌17年4月江川さんに「赤紙」(召集令状)が来て、福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、昭和20年8月敗戦で復員し元の三井研究室に復職した。その後農水省内で知る人ぞ知るで赫各たる研究業績と行政手腕を発揮していった。退職後明治大学に再就職されたようである。2012年逝去。

 

この冊子の中には江川先生のうめきのような憂国の反戦思想が詠まれているので、8月15日の敗戦記念日を迎えるにあたって、以下にその一部を無断引用させていただいた。

 

  

戦争は遠き昔のことなれど忘れ得べきや雨の塹壕

 

物忘れ激しくなりし老いの日に忘れ得べきや惨の戦場

 

銃抱きて雨の塹壕に眠りたる中国河北省保定を思う

 

自死したるあまた兵らを見捨てたる中国戦場湘桂難路

 

なぐられて殴り返さん術もなくただ耐えしのみ兵たりし日は

 

「赤紙」も「召集令状」も死語となり憲法九条すがる思いに

 

改憲は命かけて阻むべし惨の戦争を知りたるわれら

 

 

冊子の最後には、江川先生の言葉としてこう記されている。

 

::::

さて、軍部の独走による戦争をなぜ食い止められなかったのか、という問題ですが、これが問題です。その原因は長い歴史的なものがあると思いますが、その中心となることは、学問、言論、思想の自由が完全に圧殺され、軍政府による一方的な情報だけが国民に伝えられたということではないかと思います。

  

   


(森敏)
付記1:ここに登場する三井進午技師は、のちに東大農芸化学科肥料学研究室教授となって赴任した小生の指導教官でもある。
 
 生死の境の戦場を潜り抜けて、復員してきた江川さんの、その当時の精神は無頼の徒で怖いもの知らずであっただろう。労働組合を結成して、西ヶ原の農業試験場では意気軒高にふるまっていたのではないかと想像される。研究姿勢にはめちゃくちゃ厳しかったが、思想的には温厚であった三井進午技師は、研究室の同じ大学の農芸化学科の後輩の江川さんにはいささか手を焼いていたのではないかと想像した。
 
付記2:明治大学農学部江川研究室OB会編集の皆様、無断引用をお許しください。
   
追記1:江川先生のように、戦争を知る世代が高齢で逝去して行く中、今日改憲ムードが深く静かに潜行している。しかしそんななかでも、以下のように、若手政治家から明確な「改憲笑止」勢力が台頭してきたことは本当に心強い。

「安倍晋三首相が狙う憲法改正に関しては「現行憲法も守っていないのに(首相が)改憲を言い出すのは非常に危険だ。寝言は寝てから言ってほしい」。(山本太郎 時事通信へのインタビュー8月11日)
 
追記2: 上記「群青」には、昭和19年(1944年)に江川さんが陸軍少尉になって立川宿舎に一時滞在時に
   
「軍服姿で一時、わが懐かしの三井研究室に突然訪問したら、三井技師が昼間からヘルメットをかぶったまま机に向かっているのを異様に感じた」
  
という記述がある。この年から日本本土への米軍による空襲の本格化が始まったのである。小生はこの記述を読んで、感慨深いものがあった。三井先生はその後、東大肥料学研究室の教授に迎えられ、小生は1963年に卒論生として先生の指導を仰ぐことになった。東大広しと言えども、当時は研究費がなくて、東大ではおそらく三井教授室にだけクーラーが設置されていた。今年のように猛暑の夏には、その教授室で三井先生はすやすやと午睡を取っておられた。今から思うと、三井先生は戦時中の農業技術研究所での研究室の緊迫した雰囲気から大いに解放されて、熟睡されていたのだろう。我々は「ただいま動物実験中」と教授室の扉にひやかしの紙を張り付けたりしていたのだが。

2019-06-10 08:03 | カテゴリ:未分類

     小生は生来黒目(瞳)が少し青色にかけていて、野外では太陽がまぶしくて、若いときから夏場は安物のサングラスをかけていた。祖母も母も徐々に緑内障が進行して死亡時には全盲だった。だから、直射日光を警戒して、学生時代からこれまでに安物の既成のサングラスをいくつぶしたか数えきれない。45年以上前の事だが、研究室の大先輩の度入りの眼鏡レンズが太陽光のもとでみるみる黒くなっていくのを見て、そのサングラスいくらでできますか? と聞いたら当時のお金で10万円ぐらいというのでびっくりした。金持ちは違うなーとちょっとうらやましく思った。

 

40歳を過ぎて老眼が進んでからは、眼鏡をかけるようになり、遮光のためにレンズの上からかぶせるプラスチック製の「ひっかけサングラス」を使っていた、これもすぐにこわれるので今までにいくつも取り替えた。この「ひっかけ」は原理的に眼鏡のレンズにひっかける部分の金属が当たるので、レンズのコーテイング被膜を傷つけてしまうのが大いに難点であった。

   

  ところが近年ほとんどのレンズがプラスチック製になって、太陽の照度に従って次第に黒く色が変色するレンズの加工がいとも容易になったのか、某チェーン眼鏡店では遠視のレンズを作ってもらうときに、「このレンズはブルーライトカット、UVライトカット、遮光も入れられます。それで特別料金はいりません、レンズは5000円です。」ということで、今回はあらかじめ眼科医院で厳しく検眼してもらって処方箋を書いてもらって、それを持って行って、一つ作ってもらった。わざわざ眼科検診したのは、以前にこのメガネ屋で検眼処方して、その場でいそいで作成してもらったレンズは、どうしても右目の乱視をきっちりと合わせることができなかったからである。

 

  実はその時に遠視の眼鏡以外にコンピューター用のブルーライトカット眼鏡(明視の距離約60センチ)と、読書用の近視の眼鏡(明視の距離約25センチメートル)も制作してもらった。フレーム代が5000円するので一つの眼鏡に10000円したので合計3万円支払ったことになる。でもこの金額は今までの町の眼鏡屋さんで遠近両用レンズの眼鏡を製作してもらってきた時の1つあたり50000円に比べれば格安であると思った。遠近両用メガネはすぐレンズに傷がついて濁りやすい上にすぐに度が合わなくなるので、いつも不快感があったので、このさいやめることにしたら、結局3種類の眼鏡を作ることになったのである。

 

  出来上がってきた遠視用の眼鏡は保証期間が半年ということであったが、1年未満に右のフレームの耳元にかける部分が欠け、中の金属が露出し頭皮を傷つける羽目になった。1年半たって、フレームの鼻にかける部分が下着を頭から着るときにひっかけたのか剥落してどこかに行ってしまった。それでもしばらくはその眼鏡をかけていたのだが、どうにもこうにも鼻から眼鏡がすぐずり落ちる。この二つの故障の件で、つくづく結局「安物買いの銭失い」なんだなという格言を実感した。

 

  思い余って、また、のこのこと、同じ店に出かけて行った。まず修理を要求してみた。女性店員はすぐ無料で交換修理が可能なことを言っていたのだが、店の奥に入って5分以上して出てきたら、「鼻のひっかけ部分はセメダインで着けられるが、すぐ取れると思います。新しく買われたほうがいいと思います。壊れたフレームは同じものがありません」というご託宣。「じゃー、新しくレンズを作ってもらいたいんだが、これまでのようなものよりもレンズを大きい丸いものにしてもらいたい」、と言ったら、「今は丸いレンズを作るとして、お客さんの目の位置と視力に合わせるレンズの丸いフレームが必要ですが、それに合う丸い眼鏡のフレームが当社にはございません。という話である。これには少しむっとした。実は以前に、眼鏡を購入するときには、「今は丸いレンズはございません、当社のものは全部平たいレンズなので、ここにある平たいメガネフレームを選んでください」、と言って気にくわない無理やり平たいレンズを作らされ、丸型のフレームを利用できなかったのである。今回は店員が前回とまるで正反対のことをのたまっているのである。

 

「お宅はなんでもああ言えばこう言う、なんでそんな顧客に不利になるような商売を強気でやってるんだね?」

「うちのメガネフレームの棚は大体半年ごとにバージョンアップしています。眼鏡レンズもそうです。なので半年しか保証期間がございません」

と堂々のご託宣である。ようするに強制的に半年ごとに流行を作って、故障しやすいメガネを提供して、頻繁に眼鏡を買い替えさせているわけである。眼鏡にそんな販売戦略があるとは、これまで全く世間知らずだった。

 

  仕方なく、前回とまったく同じレンズでフレームも横長のものを買わされることになった。一週間後に新しいメガネができるということで前金を払った。しかし、少し納得がいかないので、

「壊れたメガネのままでは1週間困るので、このフレームの鼻掛けをセメダインでもいいからくっつけてください。耳元で壊れたフレームも違うタイプのものに付け替えてもらいたい。」と強く主張したら、店長らしき男性が出てきて、しぶしぶ30分ばかりかかって修理してくれた。

 

  店を出るときは3人の店員が「ありがとうございました!!」と大声で声をそろえて送り出してくれた。結局まんまと新しいメガネを買わされたので、この交渉は彼らの勝利に終わったわけである。

  
   
(森敏)

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