FC2ブログ
2019-04-18 15:43 | カテゴリ:未分類

          今年の五神(ごのがみ)真・東京大学総長の大学院入学式における式辞は、これから研究者の道に入る者にとって実に示唆に富んだup to dateな名言で学ぶべきところが多い。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_02.html

 

小生には、その中でも、素直に、以下に引用した、最後のくくりが一番重要であると感じた。これを読んで読者は笑うかもしれないが、研究が好きで、研究にのめりこみがちな偏執狂的な研究者ほど、時間管理がルーズになりがちで、体調や精神に変調をきたす人物がママいる。ノーベル賞受賞者利根川進氏や大村智氏も若いときのそういう経験を素直に自伝で述べておられる。以下に引用するように、ここで五神総長が、小学生に語るような、それを小生流に翻訳すれば、昼夜逆転でない、地球の自転に応じたバイオリズムに従った生活こそが、持続的研究活動の基本である。むろん、強靭な集中力はどんな職業にも必要だが、研究者が昼夜逆転の異常な生活をしたからと言って別に大発見や大発明ができるわけでもないのだ。逆は真ならずである。


 

以下引用する。

「::::::::

さあ、これから大学院での生活が始まります。東京大学は全力で皆さんの夢をサポートします。私は東京大学総長として、皆さんが安心して最高の学びと研究に打ち込めるように、さまざまなレベルで大学院の研究教育環境を充実させていきたいと思っています。健康な精神と肉体を支えにしなければ、夢は実現できません。大学院生の生活は不規則になりがちです。毎日、規則正しく起き、太陽の光を浴び、朝ごはんをしっかり食べてください。また、研究のあいまに時間を見つけ、自分に適した形で運動をする習慣を身につけてください。趣味にも時間を割いてください。::::」

 

 (森敏)
付記:上野千鶴子東大名誉教授の東大入学式における祝辞は実にユニークで感動を呼ぶものであるが、あまたのマスコミが取り上げているので、小生があえてここで取り上げるまでもない。慎重に練り上げたあえて挑発的な論考であると思う。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

 

2019-03-29 05:19 | カテゴリ:未分類
 

 
スライド1 
 
図1.クワズイモの生息地 (上)空間線量毎時17マイクロシーベルト。 (下)普段は湿地帯だがこの時は乾燥していた。 
 
 
 
      双葉郡の空間線量毎時17マイクロシーベルトの電柱のそばに湿地帯があり(図1上)、 ここは交差点にあたるので調査のたびに何度も行き来するところである。あるとき花が咲いていた(図1下)。

 

これは小生が東京で自宅から事務所に行きかえりするときに民家の道路わきの植え込みで見る「カラー」という観葉植物であるらしかったのだが、野生化していたのでよく同定できなかった。

  牧野植物図によれば、これは南アフリカから弘化年間に渡来した観葉植物で、日本ではなぜかクワズイモと呼んでいたようである。学名はCalla aethiopica L. 牧野による俗称は「カラ」であった。

  花の中に長い花序がありそこに雌しべと雄しべをつける(図2、図3)。
 
  これらをオートラジオグラフ撮像して(図4、図5)、そのあと花器を仕分けして放射能を測定した(表1)。

  葉の部分が圧倒的に放射能が高く、花器では「肉穂花序」と称する部分が高かった。この花序には雌しべや雄しべや花粉が含まれている。葉の放射能が圧倒的高いのは、雨期に水が溜まってくると葉の部分が直接水を被るのでその放射能を直接葉から吸収してしてしまうからかもしれない。
 
  この場合のように、雨季に湛水になりやすい地形のところに生えている植物は、去る2011年の原発事故時に山間部の谷内田(やちだ)の水稲が、山際からの表流水や湧水を直接葉や茎にかぶって、玄米の放射能が異常に高かった理由を想起させる。
   
   要するに湿地帯の植物はいつまでも内部被ばくが高く続く可能性がある。






スライド2 
図2.花器の部分 押し花にされているが、花弁のなかには図3のように大きな肉穂花序がある。
 
 
 
 

 
 
スライド3 
 
図3.花弁を一部除いたところ。 棒状の肉穂花序。押し花しているうちに一部がカビている。
 

 
 
 

 
スライド4 
図4.葉の部分のオートラジオグラフ

 
 

 
 
 
 
スライド5 
 
図5.図2の花器の部分のオートラジオグラフ 肉穂花序が強く浮き出て感光している。


 
 
 
 
表1.クワズイモの放射能 
 
 スライド1
 






(森敏)


2019-03-20 07:45 | カテゴリ:未分類

  駒場(東大教養学部)の同窓会館での同窓会のあと、皆と別れて一人で、近くにある日本農学の原点ともいうべき 「ケルネル水田」 を40年ぶりに訪れてみた(1)。ここは都会のど真ん中にある水田である。その由来は、そこに建てられた標識によれば以下のとおりである(2、図3)。筑波大学付属駒場中学校、高等学校の生徒たちは、この水田を用いた田植え、水管理、稲刈り、脱穀、精米までのすばらしい体験実習をしていることと思う。






 
スライド3 
図1.都心に珍しい本格的な水田  上流水口(みなくち)からの眺め。


 

    
 
 
スライド2 
図2。左は「ケルネル田圃」の説明文(以下に転載しました)。
右は農作業の手順を絵でわかりやすく示している。

 
ケルネル田圃

ケルネル水田は、旧駒場農学校の実習田です。駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎を置く欧米農法取り入れるために、農業指導者を養成する学校として明治11年に設置されました。

   
 札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統の農学が取り入れられました。
  

 ドイツ人オスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、日本農業の特質を配慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、肥料などの研究と教育を行い、多くの成果を収めました。
  

 ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。
  

 なお、駒場農学校は、のちに東京農林学校となり、東京帝国大農科大学などを経て筑波大学に継承されました。
   

 現在、ケルネル田圃では筑波大学付属駒場中学校、高等学校により教育水田として生徒が実習しています。

 
   
  
 
 
 
 
スライド1 
 図3.水田の周辺に建てられている掲示板と碑文。
左:目黒区緑の散歩道。駒場で花開いた近代農学  のタイトル
右:水田の碑
 
  
 
 
 

  このオスカー・ケルネル先生の像は、古くから当初は確か小生も長く在籍した東大農学部2号館の正面玄関内にあったと思うが(不遜にも今となっては記憶が定かでは無いのだが)、いつの間にか3号館の正面玄関内に運ばれて、今はその片隅に追いやられて、狭い思いで立っている(4)。この胸像は建物の中にずっといたので、東京大学の中央の広報関係者もあまり知らないらしく、最近大学から送られてきた「学内広報」の東大の胸像群の写真には載せられていない。農学部正門に向かって入り口を入って左側にある上野英三郎先生と忠犬ハチ公が戯れている像の方が今では有名である。



オスカー・ケルネル先生の像1 
図4.オスカー・ケルネル先生の像。 文京区向ヶ丘弥生の東大農学部3号館の玄関の中に胸像が建っている。
   
   
 

 (森敏)

追記1:ケルネル先生以降の東大農芸化学科の長い歴史は以下のホームページに簡潔に記載されています。

http://www.bt.a.u-tokyo.ac.jp/science/history/

追記2.筑波大学付属駒場中学・高校校長の林久喜さんは筑波大学教授でもあり、

中学校の総合学習の時間で実施される水田学習の教育効果
林久喜 
日本農業教育学会誌   (別) 67-68   2017年10月

という論文を発表している。

この学校は2019年の東京大学に全国で2番目の入学数(113名、現役83人)ということだ。水田での体験学習の成果もあるのかもしれない。
2019-02-03 10:00 | カテゴリ:未分類

これまで全く立ち寄ったことがなかったのだが、最近整備された上野公園の小高い一角に、なんとアメリカのグラント大統領の石碑が建立されており(1)1879年(図明治12年)825日に大統領お手植えのヒノキ(檜:Cupressus lawsoniana)と夫人のお手植えのタイサンボク(泰山木:Magnolia grandiflora)があった(図)。それぞれの木の下に石碑が建てられていた(図3、図4)。タイサンボクは別名のぎょくらんが石碑には記されている。
 
    (江戸開国後こんなに早くからアメリカの大統領が日本を表敬訪問していたとは知らなかったなー。第2次世界大戦での敗戦後は、日本の首相は、代替わりのたびにアメリカの大統領を表敬訪問する朝貢外交をやらされているのだが。)
     

  ヒノキは一枝のみが健在でいまにも枯れかけているが、タイサンボクはおどろくほど旺盛に上下左右に翼を伸ばしてこんもりとしている。いずれも20メートルを超えると思われる高さである。小生はこんなに大きなタイサンボクを見たことがない。よほど土壌が合っているのだろうと思われる。一方のヒノキの土壌は根の張りに障害があるのかもしれない。計算するとこれらの木は樹齢140年以上ということになる。
 

  上野恩賜公園は1876年(明治9年)4月開園、東京大学の創立が明治10年だから、両木は東京大学とほぼ同じ樹齢ということになる。そう考えると140年の風雪に耐えてきた両木がなんとなくいとおしい。どうかこのヒノキ君が枯れないようにと願わずにはいられない。
     
スライド2 
 
グラント大統領(中央の像)の訪日記念碑。 左のアルミ版に由来が書かれている。
 
スライド1 
 左が大統領婦人お手植えのタイサンボク、右が大統領お手植えのヒノキ
 
スライド3 
 
右から俗称グラント・ヒノキとかかれた石碑
 
スライド4 
 
右から俗称
グラント・ギョクランと書かれた石碑
        
この小高い一角は、桜並木のすぐそばなのだが、人々の流れから外れているのか、普段はあまり人がいないようだ。
  

(森敏)
付記:「このグラント将軍が自ら植えたとされる松が増上寺にあり、【グラント松】との名称で親しまれています」という記事をネットで見つけた。なるほど、訪問記念に木を植えるということは、後世に残る行事だが、その受け方の方を考えると、末代までの維持管理に気を遣うのは結構大変だと思う。現にこの上野の グラントヒノキ は、 いまや息絶え絶え であるとお見受けした。

2019-01-24 07:15 | カテゴリ:未分類

プレゼンテーション1 
図1.願法:燕尾
   
   
       漢字の筆文字でせわしく書かれており数カ所訂正が入っている「書」に「顔真卿」と書かれているポスターが、年末から東京の各所に長い間掲げられていた。小生は「書」にはほとんど興味がないので、中国で高名な人物なのかなとは思っていたが、わざわざ国立博物館にいく気はしなかった。

   

ところが、全くひょんなことからこの展示会の招待状が手に入った。121日は月曜日なので上野界隈の官営建物は全部休館日なのだが、この日は特別に某企業が主催する内覧会ということで、散歩を兼ねて、快晴の日和でもあったので、のこのこと国立博物館に出かけた。その封筒を見せて国立博物館の平成館に入れた。門の外で数人の若い女性の中国人観光客が「我々はなぜ入れないのか」と押し問答していた。この日は通常は休館日だということを彼らは知らないのだろう。 (しかし、 後で家に帰ってネットで検索して分かったのだが、この展覧会は中国人にとっては垂涎の展覧会なのだそうだ。どうりで、いつになく会場の警備の雰囲気が厳しいと思ったことだ。)

   

見学していて分かったのだが、このポスターに描かれている「書」の内容は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」と言って、中国歴代の支配者が激賞しているとてつもなく有名な顔真卿の「書」の一部だったのだ。この書は、現在は多分蒋介石が持ち込んだのだろう、台湾の故宮に保存されていて、大陸の中国人は目に触れることができないものなのだそうである。「我々中国人が見られないものが、なぜ日本で開催されているのだ!」という観光客や在留中国人の言い分もあるらしい。

   

確かに、1番目の会場の一番最後のコーナーでやっとお目見えする「祭姪文稿」(758年)の心情あふるる内容は「書」を目でおいかけていきながら音声ガイドの説明を聞いていると、非常に迫力があった。玄宗皇帝と楊貴妃で有名な唐時代の安禄山の乱で、顔真卿は孤立に耐えて地方で自分の城を守ったが、他の城にいる兄の顔杲卿とその息子の願秀明は援軍が来なくて殺された。目の前に展示されているものは、その二人を哀惜する、顔真卿が憤激に耐えながら急いで書いた「書」なので、文字の乱れや訂正箇所がそのまま反映している貴重な「原本」なのだそうである。どおりで「なんでこんな荒っぽい書をポスターに使っているのだろう?」という疑問が払しょくされた。写真を撮ってはいけないので、その会場での雰囲気は伝えられない。この書の全文は国立博物館のホームページで見られる。

    

12時から16時まで、我ながら驚くべき忍耐力で鑑賞した。途中で腰痛になりかけて、危機を感じたので、思わず椅子にへたり込んだ。2会場に分かれていて、第1会場の顔真卿のコーナーに行く前に、近くのおばちゃん連中も「やっと顔真卿まで来た、私くたびれちゃった、私トイレに行きたくなっちゃった、でも頑張ろうかな」といって自分で励ましていた。書道などの習いごとをしているご婦人たちと見た。第2会場の後半部にある日本への中国の漢字の伝承者である空海や小野道風などのコーナーでは、集中力に限界が来て、流して観てしまった。

  

数多い作品を見ながら、一点われながら驚いたことがある。それはいろんな書体の変遷を観賞しているときに、たぶん全部で千文字ぐらいあろうかと思われる「故大徳院法師碑」という縦横(2mx4m)ぐらいの碑文に向かった途端、その間10秒ぐらいだと思うが、小生の名前である「敏」という文字が目に飛び込んできたのである。それはまさしく飛び込んできた、という瞬時のできごとであった。最近眼科検診で少し白内障気味だと宣言されていた。そのせいか、意識しないと周りをきちんと見ていない気がしているのだが、今回は我ながら自分自身のパターン認識のすごさに驚いた。昔、湯川秀樹がどこかの雑誌の対談で「人間は100万人の群衆の映像の中にでも、ひとりの知人を瞬時に同定できるのはどうしてだろう?」と言っていたのを思い出した(周知のごとく、いまではAIがそれを超スピードでやり遂げる)。そこでそのあとの2-3の碑文などでは意識的に自分の名前を探したのだが、全く見いだせなかった。敏の文字の一角である「母」という文をどこかの碑文で見出したのみであった。それ以降はあきらめた。焦点を合わせながら意識してみるとだめなようで、漫然と見ることが必要なようである。

  

顔真卿流派の楷書(「顔法」というらしい)の特徴の一つとして、筆使いの書き始めのふくらみが、かいこ(蚕)の頭に似ているので「蚕頭」という手法があって、もう一つの特徴として、例えば「之」という字のしんにゅうの下に伸びる払いのところで、ツバメの尾のように二股に割れるように伸ばす「燕尾」という筆法があるのだそうである。そのように見ていくと、なんと、之 人 入 大 及 夫 尺 丈 文 八 父 とすべてみごとに燕尾である。知らなかったなー。いったいどういう筆使いなんだろう?(本文最初の図1です。パワーポイントで苦労して作図してみました。筆ペンで試みてみたが絶対にうまくいかない。)

   

  素人目にもわかりやすかったのは、当代の顔真卿もその力量を高く評価していた「懐素」という僧侶の書いた自叙帖(726年)というのがあった。これは酒に酔って自由奔放に書いた草書(?)のものだそうで、まさに文字が実にまろやかに踊り狂っている芸術品である。ここまで簡略化するかね!という代物であるが、楷書に翻訳しているものと比較して見ると、なるほどね! と感嘆するものである。いつかこのブログでも紹介したことがある川口雪蓬の書と同じく、読んでいると自分も酔っぱらっているかの如く体が躍動する感じがしたのだ。

  

  というわけで、今まで全く興味をひかなかった書の歴史が少しは理解できたので、今後は「日展」も「書」のコーナーをパスしないで鑑賞したいと思った。実に遅まきながら。

 
  
(森敏)
 
付記:顔真卿の年譜の最後は、
 
785年 77歳で龍興寺で首を絞められて殺された

とある。

顔真卿は主君には絶対服従の生来頑固で融通が利かない忠臣であったのだが、権謀術数の宮廷内での策謀に弱かったようである。だが、
逆に、それ故に「願法」という美しい「楷書体」を創作し得たのだ、と勝手に解釈した。
FC2 Management