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2023-08-31 14:54 | カテゴリ:未分類
文藝春秋を買って、今回第169回目の芥川賞を受賞した市川沙央(いちかわさおう)さんの「ハンチバック」を3回読んだ。ずっと意味が分からなかった「ハンチバック」の意味は小説の最後の方に出てきて「せむし」という意味だという仕掛けになっている。

一回目にざっと読んだときは文章から主人公の居住空間の記述が漠然としていて、想像できなくて印象が飛び飛びだった。

使われている多分ネット上で、はやっている省略されたカタカナ文字が、気になって、気になって仕方がなかった。(以下の例です。
ソシャゲ、マチズモ、ミオパチー顔、インセル、ステヤ、ADA、バリバラ、ハプバ記事、スパダリ、ナーロッパ、マケプレ、共通のヴィラン、プチプラ化、裏オプ、テンプレ、モブレ要員、セぺ、即席でNNが一番性にあっている子、SE要員、ダブチの側面のチェダーチーズ等々)。

2回目に少し丁寧に読んだときは、なんでこの作家の文章は各所でツンツク尖っているんだろうと思った。2回読んで、一番印象に残っているのは、
遺伝的にミオチュブラー・ミオパチーで筋力低下・心肺機能低下で、のどに穴をあけて人工呼吸器をつけている主人公の女性が、介護ヘルパーの男性とオーラルセックス(ふぇらちお)をやって射精されて誤飲性肺炎になるという、命を賭した場面である。

この描写は、この作者の作品として今後も歴史に残る場面として語り継がれるのではないかと思う。

その後、文藝春秋誌に掲載されている芥川賞選考委員(松浦寿輝、小川洋子、奥泉 光、平野啓一郎、吉田修一、島田雅彦、山田詠美、川上弘美、堀江敏幸)の諸氏の「ハンチバック」に対する評価や、その後朝日新聞(8月28日)に掲載された、二松学舎大学准教授荒井佑樹准教授(障碍者文化論)や詩人で文芸評論家の山崎修平さんの意見などを読んだ。いずれもプロの批評家の評価はさすがだなーと感心した。この小説では、かれらも自分自身の文学観を鋭く問われたことと思う。

先日芥川賞・直木賞 贈呈式が行われて、市川沙央さんは以下の感想を述べている。
:::過去に読書バリアフリーを求める出版界への手紙が無視されたり、20年にわたってライトノベルの新人賞に落選し続けたりした経験を語り、「怒りだけで書きました。『ハンチバック』で復讐するつもりでした。私に怒りを孕ませてくれて、どうもありがとう」と皮肉たっぷりに話した。一方で、「でも、こうして皆様に囲まれていると、復讐はむなしいということもわかりました。私は愚かで、浅はかであったと思います。怒りの作家から、愛の作家になれるように、これから頑張っていきたいと思います」とも述べた。

芥川賞をもらったからと言って、そんなに簡単に「怒り」から「愛」へ宗旨替えしていいものかと多少不安に思います、著者特有のギャグと思いたいですね。

ところで、正岡子規は病床の根岸の子規庵で定期的な句会などを招集して、質の高い弟子どもから、外の空気(巷の情報)を得ていました。だから、病床六尺でも作家活動ができたのだと思います。市川沙央さんもこれからの愛の作家としても、インターネットからの玉石混交の豊富な情報源からだけではなく、積極的に対面での情報収集が望まれるように思いました。

思わず、当時の文壇の巨匠である川端康成に連綿たる哀訴の手紙を書いても芥川賞を阻まれた、大宰治の悲劇を思い出しました。


(森敏)
2023-08-09 22:18 | カテゴリ:未分類
  最新の學士會会報(No.961号)に、土屋直嗣氏(ツチヤナオツグ:現オーストラリアモナッシュ大学心理科学部教授)の

最新の脳科学と意識の理論から予測する、
   人工知能(AI)の意識の可能性について


という7頁にわたる解説記事が載っていた。いきなり、 「AIは意識を持つか?」というサブタイトルが掲げられて文章が始まっていたので、食いついてみた。

読んでいて「クオリア」という言葉や、「意識とは何ぞや」とか「知能とは何ぞや」という分野は、認知機能が急速に衰えつつ合う小生にとって、少し腰を据えて、もっと理解してみたいな、という魅力に駆られた。

文中で
:::詳細は割愛しますが、:::::興味を持たれた読者の方には、日本語の入門書として拙著の「クオリアはどこから来るのか―統合総合理論のその先へ」を参考図書として挙げておきます。::::

という記述があった。學士会報の専門家諸氏の記事は、他分野の人にもわかる様に、比較的かみ砕いてくれている文章がほとんどなので、ふつうはじっくり読めば少しは理解度が進む文章が多い。しかし、この土屋氏の文章は、「です」「ます」調で書いてくれているのだが、全体として、この分野の研究が現在急速に進行形であるためか、まだまだ明快な理論として組み立てられているわけでないので、未消化の感を否めなかった。基礎的用語の概念の解説をしていたら、話が前に進まないのであろう。だから自著を読んでくださいというわけである。

そこで、土屋直嗣氏本人の著書

クオリアはどこからくるのか? 統合情報理論のその先へ (岩波化学ライブラリー:電子書籍版)

を早速、紀伊国屋書店から購入して、基礎から読むことにした。読み始めて、すぐに、これは相当腰を据えて時間をかけて読む必要があると、いやでも気付かされた。

それでも純粋に哲学者が書くような、こねくり回した、入れ子のような持って回った構造の文章ではなく、主語述語修飾語の比較的簡明な論理展開であるので、途中までは何とかついていけたが、最後までいちおう字面(じずら)は読めたが、よく理解ができなかった。電子辞書なので文字を思いきり拡大して、間欠的だが、1週間かけて読んだつもりなのだが。

やはりこの年(新老人)になると、新しい専門用語の概念や定義がなかなかつかみにくい上に、読んでいて次の日にはうすぼんやりとして定義を忘れていくので、能率の悪いこと悪いこと。。。。。

この本で特徴的だったのは、本のなかに7カ所で、QRコードが埋め込まれていて、それをスマホで読み取ってその動画の内容を見ることにより、読者に論理の展開の理解を深める手法を採用していることであった。これはなかなか斬新な現代的な手法だと思った。

小生はスマホをやらないので、ここのユーチューブ動画はスキッップせざるを得なかった。つまりその情報量が得られなかったので理解がすこし不足したことは否めなかったわけでもあった。小生が知らなかっただけなのだろうが、なかなか手の込んだ形式の本が出てきたと思う。著者には申し訳ないが、この書籍製本手法が一番小生には印象に残った。

「クオリア」概念の時空を含めた立体構造の解明に期待したい。「クオリア」は揺らぐ実体と呼ぶべきか。
  

(森敏)

付記:漠然とした稚絶なレベルでの印象で恐縮だが、この著者の研究グループは「クオリア」の概念創成に関して、物理学の「不確定性原理」や物質が波動でありかつ量子であるという量子力学の影響を強く受けていると思った。



2023-07-26 16:34 | カテゴリ:未分類

康保険証の2024年秋廃止方針、河野デジタル相「待ったなしだ」…期限延長しない意向
読売新聞 によるストーリー • 9 時間前

 マイナンバーカード問題に関する参院地方創生・デジタル社会特別委員会の閉会中審査が26日午前、開かれた。河野デジタル相は健康保険証とマイナカードを一体化する「マイナ保険証」に関し、「メリットは非常に大きい。医療DX(デジタルトランスフォーメーション)は待ったなしだ」と述べ、健康保険証を2024年秋に原則廃止する方針は変更しない考えを示した。
 マイナ問題を巡っては、マイナ保険証に別人の情報がひも付けられる誤りが相次いでいるほか、埼玉県所沢市がマイナンバーの誤登録により、別人の公金受取口座に振り込みをしていたケースも明らかになっている。与党内からもマイナ保険証への一体化の期限について延長を求める意見が出ているが、河野氏は「保険証を廃止し、マイナカードの利用に統一した後も安心して保険診療を受けていただけることに変わりはない」として、延長しない考えを示した。
 河野氏は、最長1年間は発行済みの現行保険証を利用できる経過措置も設けているとあらためて説明し、「この期間も使いながら丁寧に説明し、不安払拭(ふっしょく)に努めていきたい」と強調した。デジタル庁が個人情報保護委員会による立ち入り検査を受けたことについては「個人情報保護に関する重大な事案が起きてしまったと認識している」と述べた。

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 大学を退職したときに財布に入るカード大の「名誉教授の証」をもらったが、これが大学の外で身分証明書として役にたったことはこれまで一度もない。

  小生は車に乗らないので (乗ると人をひき殺す自信があるので) 車の免許証を一度も持ったことがない。運転免許証は顔写真があるので、日本のどこでも本人確認には最高に威力を発揮するようである。

  最近、小生は体調不良で国際学会にも過去10年ばかりは外国出張していないので、パスポートも2027年には切れる。延長申請するつもりもないし、外国人でもない限り、普段は日本人が日本国内でパスポートを持ち歩くことなんか無いだろう。だがこのパスポートも写真付きなので、本人確認には日本の役所では重宝がられているようだ。

  というわけで小生にとっては、健康保険証は「命綱(いのちずな)」といってもよい。定職を持たない後期高齢者などは、みんながそう思っていることだろう。

  国民総背番号制 (マイナンバーカード) が定着したから、国民の資産がくまなく紐付(ひもづ)けられて政府当局には丸見えになったので(つまり、国民一人一人の全財産が可視化されるので)、タイやインドの「経済が飛躍的に発展している」と報じられている。

それは事実かもしれないが、これらの国の行く先は、経済合理性を極めた末に、そのまま放っておくと中国のような人権無視の弱者いじめの独裁国家になるのがオチだろう。日本も後塵を拝するつもりなのか、小生には河野デジタル相はIT企業に尻を叩かれて血迷って旗を振っているとしか思えない。

  病院に行って、窓口で「健康保険証」を見せて、診察や治療を受けて、病院窓口で受診料を払い、医者に薬の処方箋をもらって、薬局で薬を出してもらって、お金を支払うときが一番「あー俺は日本国民でよかった」と実感するときである。

医学の発達に感謝しつつも、不遜な話かもしれないが、一方では小生の壊れつつある体が、巡り巡って、医薬品業界や、医療器機メーカーの発展にも貢献して、ひいては日本の GDP(国民総生産) の向上にも貢献しているんだろうなと、勝手に思うことにしている。

  紙ベースの「健康保険証」こそは日本国民としての強固な identity (存在証明)の基盤であると思う。

  その意味で、小生は紙の健康保険証の廃止には断固反対である。
    
   
 (森敏)
2023-06-22 15:41 | カテゴリ:未分類
本日朝日新聞の朝刊の、「社会季評」という欄に、臨床心理士の東畑聞人という方が

「AIに心の相談 弱さが生む人間の役割」

というタイトルで寄稿していた。

タイトルが奇妙でわけがわからなかったので、引っかかって、記事を読み始めたら、なかなかの名文で、途中でやめられなくなった。一例をあげると、曰く
   
::::AIは気分にムラがないし、機嫌を損ねることもない。言葉の裏を読まなくてよい。時間や場所を気にする必要もない。AIの器(うつわ)は無限だ。心がないからだ。私が何を言おうとお構いなしに一定の反応を返してくれるとわかっているから、あらゆることを相談できる。::::云々:::

などと、人間(例えば臨床心理士)に対して悩み事があって相談を持ち掛けると、どうしても相手が人間なので、こちらが構えてしまうが、AIには警戒心なしに相談できる、という利点を述べている。

これは言われてみれば実にもっともで、小生には実に意外な指摘だと思われた。

孤独で引きこもりがちな若者や老人にとって、AIは決して悲観的な応答をしないので、たのしく、心から相談事ができるのかもしれない。
   
ちなみにチャットBingに以下に尋ねてみた。悩みの相談では当然チャットの側からも、悩みの当事者に対しても質問しなければ会話が成り立たないと思われるので。

「  
チャットはそちらから質問することもありますか?
  
はい、私はあなたに質問することもできます。
  
どんな質問ができますか?
  
*私はあなたの興味や趣味に関する質問ができます。例えば、あなたはどんな音楽が好きですか?
  
どういう場合に質問がチャットから発せられるのでしょうか?

*私はあなたと会話を続けるために質問をします。あなたが話したいことがないときや、話題が尽きたときに質問をします。

話題が尽きたときの質問は何でしょうか?
  
*話題が尽きたときの質問は、あなたの好きなことや考えていることに関するものです。例えば、あなたは最近読んだ本や見た映画について話してくれますか?
   
そのようにして、話題が尽きないように、えんえんと会話を続けてくれるんですね?
   
*はい、私はあなたと楽しく会話をしたいので、話題が尽きないようにします。もちろん、あなたが会話を終わらせたいときは、いつでも終わらせることができます。
    
あなたは何のために作られましたか?
     
*私はあなたにインターネット上の情報を提供したり、クリエイティブなコンテンツを生成したり、会話を楽しんだりするために作られました。

  
というわけで、人はチャットと時間制限なく延々会話ができるようです。

しかし小生がしつこく深く科学的な疑問点を追求すると、困ってしまって、これ以上会話をするのはやめましょう。という応答をこれまで数回されたことがあります。

しかし、ヒトの心の悩みや、幻想や、幻覚や、夢に関しては、もともと正解のようなものはないと思われるので、延々チャットは懲りずに対応してくれるのかもしれません。悩みを吐き出すことによって、少しは心が整理されて休まる、という心理学の手法もあるようなので。


(森敏)

2023-06-18 16:21 | カテゴリ:未分類
村上春樹さんの中学生卒業時の写真1
村上春樹の精道中学時代の写真 広井大先生提供 (転載)

  村上春樹の『街とその不確かな壁』(新潮社)を2週間かけて読んだ。

  読んでいるうちに、この話の展開はいつもの村上春樹が得意とするパラレル・ワールドの記述法であり、整合性のあるストーリー展開でもなさそうで、感性が鈍磨している小生にとって、読んでいて中身がわくわくするものでもなかったので、一気読みする必要がないと思った。

  出版後2か月もたっているので、そろそろ、村上春樹自身によるインタビュー記事(読売新聞(文化部 待田晋哉)や、正攻法に構えた鴻巣友季子の文学潮流など、読書評論家によるこの本に対する深読みの村上春樹論が雑誌やネット上で出始めたので、普通の読者である小生は、ここでは専門の評論家とは別の得手勝手な読後感を述べたい。

  読書の途中で、今回遅まきながら、はじめて気が付いたのだが、この小説にはいたるところに、美文がはめ込まれている。おそらくこれまでもそうだったのだろうが、今回初めて気になったので、これまでの小説よりもその頻度が高いのではないだろうかと思った。大まかに言うと、

「:::::は、まるで::::::::::かのようであった」

というカタチの「たとえ話」の文章表現が満載であった。全655頁のうち軽く数えて付箋を挟んでいっても、50カ所以上にわたってそういう表現があった。それぞれがけっこう普通にはあまり思いつかない軽妙なあるいは深遠な表現なのである。
   
  小生はそういう表現をなめるようにじっくり味わいながら、この作家がどうしてそういう表現を発明することができるのか、想像を巡らせながら読むのが今回はすこし楽しかった。

付記に、その例を書き写しておいたので興味のある方は味わってください。
  
   
  ところでここからいつものように話が少し脱線するのだが、小生は中学生の時に、高価な筑摩書房の作家ごとのA4判の大きさの文学全集を親に買ってもらったことがある。その中で、太宰治の様々な短編小説や、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中での、えもいわれぬ文章表現に、大いに感心して、それらをノートに熱心に書き写した時期があった。その一部を「潮騒」という精道中学校の文芸雑誌に投稿したら、掲載されて、なんとなくうれしかった。

  実は、この精道中学校の国語の先生が神戸大学教育学部(国語学科?)出身の広井大先生であった。広井先生の卒業論文は紀貫之の「土佐日記」であったと聞いている。年譜を調べると、村上春樹さん(現在74歳)は、小生の7年後輩で、この精道中学校の同窓生であるらしい。このことはこのWINEPブログでも述べたことがある。

  広井先生は国語学でこの春樹君のお父さん(確か当時甲陽学院の国語の先生?)と家庭訪問などで親しかったので、「村上春樹がノーベル賞を取るまで生きていなくては」と、人知れず頑張って生きておられた。春樹君が本を出版するとすぐに買い求めていたとのことである。ただし、『ノルエーの森』以外はなんとなく本の内容には馴染めなくて、自宅の本棚への積読(つんどく)が多かったとか、ご本人から聞いたことがある。

  今回、「村上春樹」で画像検索すると、彼の中学校卒業時の写真が出てきた。なんと、その写真の下には、広井大氏提供と書かれているではないか!!

  先日のWINEPブログで紹介した92歳で逝去された人物は実はこの広井大先生なのである。先生は「村上春樹がノーベル賞を取ったら、マスコミのインタビューを受けて彼の中学時代の人物像を語ってみたい」と楽しみににされていたのだ。

  しかし、実のところ、村上春樹の小説には、香櫨園の小学校の時と神戸高校の時のことが時たま、登場してくるが芦屋在住の精道中学校の時のことは、小生の知るところではどの本にも登場してこなかった。

  今回の小説 『街とその不確かな壁』 の中にわずかに中学時代と思われる記述が以下に修飾的に出てくる。

:::::学校での生活についても、取り立ててかたるべきことはない。成績はそれほど悪くはないが、人目を引くほど優秀なわけでもない。学校でいちばん落ち着ける場所は図書室だ。そこで一人で本を読んで、空想のうちに、時間をつぶすのが好きだ。読みたい本のおおかたは学校の図書室で読んでしまった。
  
  春樹君は、きっと中学時代も、体調などにわけがあってか、学校が面白くなくて、自宅で好きなレコードをかけたり、本ばかり読んでいた目立たない、人好きの良くない子だったと、勝手に想像される。小生の時代には、精道中学から神戸高校に行く子は結構クラスでも成績が上位の子が多かったと記憶している。小説家村上春樹には、残念ながらいくら思い出しても、小説に書くほどの中学時代の感動的な体験のネタがないのかもしれない。
     
 
(森敏)

付記:以下は [街とその不確かな壁」から「:::::は、まるで::::::::::かのようであった」 の類の表現を拾ったものです。


・古井戸のように深いため息をついた。

・規則性と単調さとの間に線を引くのは、ときとしてむずかしいものになるとしても

・そこにあったのは喩えようもなく奇妙な感触だった。その層は物質と非物質の間にあるなにかでできているらしかった。

・その針が午後三時をわずかに回っていることを確認してから、一度深呼吸をし、湖に張った氷の厚さを、そこを渡る前に慎重に確かめる旅人のように。

・そして彼女たちの意見は、あるいは総体としての意見は、汚れた洗濯物のように、どこか奥の方にそそくさと仕舞い込まれてしまった

・「どうだろう?恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ、と言ったのは誰だっけ?」

・小さな口を半ば開き、虫を間違えて喉の奥に飲み込んでしまった時のような顔をした

・私はため息をつき、机の上に両手を置いて目を閉じ、時間の過行く音に耳を澄ませた。

・旅人が自分でも気づかぬうちに、大事な意味を持つ分水嶺を踏み越えてしまったみたいに。

・岩の隙間から水が湧き出すみたいに、文章がすらすらと目の前に浮かんできたものだったが。

・自分はいったいこれまで何のために生きてきたのだろう?ひょっとして地球が逆に回転し始めたのではあるまいかと、真剣に不安に駆られたほどだった。

・嫌な予感がした。心臓が乾いた音を立てた。

・なんだか建物の太い柱があっさり取り払われたような、そんな虚脱感に襲われました。

・「意識とは、脳の物理的な状態を、脳自体が自覚していることである」という誰かの定義を:::

・松の大枝に積もった雪が時折重く積もった音を立てて地面に落下した。まるで力尽きて手を離した人のように。

・そうするうちに出し抜けに―まるで足元の茂みから鳥が飛び立つみたいに唐突に―その題名を思い出した。

・頭の中にあるのは心地よいただの空白だった。あるいは無だった。雪の予感を含んだ寒冷さが、鉄の腕のように私の意識を厳しく締め上げ、支配していた。

・私は黙ってストーブの火を眺めていた。私の体内で時間が淀む感触があった。

・まるで栄養ドリンクでも飲むみたいに、そこにある情報を片端から吸収していきます

・まるでついさっき世界の裂け目を目撃してきたかのような悲痛さを含んだ叫びだ。

・いくら特殊な能力があるといっても、個人のキャパシテイーには当然限度がある。まるで海の水をバケツでくみ上げているようなものだー

・そして身動きせず、一心不乱に猫たちを観察していた。まるで地球の創生の現場を見守る人のように。

・共存共栄。誰も傷つかない。それは読書という行為の優れた点の一つだ。

・彼はそれをじっと見つめていた。ポール・セザンヌが鉢に盛られた林檎の形状を見定めるときのような、鋭く批評的なまなざしで。

・私はどうやら本格的に、習慣を自動的になぞって生きていく孤独な中年男になりつつあるようだ。

・私の中で時間が入り乱れる感覚があった。二つの異なった世界が、その先端部分で微妙に重なりあっている。満潮時の河口で、海の水と川の水が上下し、前後し、入り混じるように。

・私はそれに対してうまく返答することができなかった。しばらく沈黙が続いた。その沈黙は宇宙に浮かぶ白紙の息というかたちをとっていた。

・心も身体もまだじゅうぶん馴染んではいない。新品の衣服に身体がうまく慣れないみたいに。

・寒い夜に赤々と輝く火には、遺伝子に深く刻み込まれた集合的記憶を呼び起こすものがあった。

・考えてみれば、私がそこに暮らしている時から既に、町を囲む壁は刻々とその形状を変化させていたのだ。まるで臓器の内壁のように。

・電車が固定された軌道の上を進んでいくみたいに、その習慣から外れることはまずやりません。

・父親はそれについてじっくり深く考え込んでいた。飲み込みにくい形のものを、何とか喉の奥に吞み込もうとしている人のように。

・彼女は山の端に上ったばかりの月のような、淡い微笑みを口の脇に浮かべた。

・言うなれば水面下深くにある無意識の深い領域に」

・強い既視感が、私の身体全体にもやもやとした痺れをもたらした。身体を巡る血液に何か目に見えない異物が紛れ込んだかのように。

・その顔には、いったんは笑いかけたが思い直してやめた時のような、どことなく中途半端な表情が浮かんでいた。

・それで少しは気持ちがおちついたものの、心臓は相変わらず、槌で平板を打つような、乾いた音を立てていた。

・彼女の指先で優しく撫でられたあと私の耳の痛みは―その微かな夢の名残は―あとかたもなく消え失せていた。新しい陽光に照らされた朝霧のように。

・夢の内側と、夢の外側との境界線がきっと不明瞭になっているのだ。

・まるで強い潮の流れに運ばれていく漂流者のように、私の内側で周りの情景が転換する。

・君の隣に腰を下ろすと、なんだか不思議な気持ちになる。まるで数千本の目に見えない糸が、君の身体と僕の心を細かく結び合わせているみたいだ。

・その安定した日常が、今日初めて乱されたのだ。梯子の段がひとつ取り払われるみたいに。

・私の心は私の意思に反して、若い兎が初めて春の野原に出た時のように、説明のつかない、予測のできない野放図な躍動を欲しているようだった。

・振動のおかげで、トレースされた画像が原形から微妙にずれていくみたいに。

・「さよなら」と彼女も言った。まるでこれまで見たこともない食べ物を始めて口に入れる人のように、ゆっくり注意深く、そして用心深く、そのあと、いつもの小さな微笑みが口元に浮かんだが、その微笑みもいままでと同じものではなかった。

・この作品は僕にとってずっと、まるでのどに刺さった魚の小骨のような、気にかかる存在であり続けてきたから。
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