2015-07-07 10:26 | カテゴリ:未分類

最近、学術の動向(2015年6月号)に特集号として

内山真・日本大学精神医学系主任教授が

厚生労働省による

 健康づくりのための睡眠指針2014 ~睡眠12カ条~

というのを紹介している。

 

第1条    よい睡眠で、からだもこころも健康に。

第2条    適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。

第3条    良い睡眠は、生活習慣病予防につながります。

第4条    睡眠による休養感は、こころの健康に重要です。

第5条    年齢や季節に応じて、昼間の眠気で困らない程度の睡眠を。

第6条    良い睡眠のためには、環境づくりも重要です。

第7条    若年世代は世更かし避けて、体内時計のリズムを保つ。

第8条    勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。

第9条    熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。

第10条 眠くなってから寝床に入り起きる時刻は遅らせない。

第11条 いつもと違う睡眠には、要注意。

第12条 眠れない、その苦しみを抱えずに、専門家に相談を。


 
      小生は年のせいか、最近とみに睡眠のリズムが狂ってきた。若いときから睡眠が浅く、今でも一日合計8時間は寝なければ気持ちがわるい。最近は入眠に時間がかかるので、入眠剤「マイスリー」の助けを借りて、すとんと入眠することにしているが、それでも夜中に2回は起きる。11時半に寝て3時半と5時頃に起きて、食事をして、7時から8時半までまた仮眠をする。そうしないと、昼の2時頃に強烈な睡魔に襲われる。

  これまでも睡眠には諸説があり、個人的体験もさまざまなので、誰の睡眠学説もあまり信用できないのではないかと漠然と思っていたのだが、どうやら上記の内山先生の箇条書きには、きちんとした学問的な裏付け(医学的エビデンス)があるとのことである。小生としては、第5条と第9条を合わせて一本とした睡眠に関する指導理念としたい。つまり「眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。昼間ねむたくなったら短い仮眠を取る」

 

小生が睡眠に関して一番恐れるのは、学会での講演発表などの、緊張覚醒していなければならない時間帯に、眠気に襲われることである。前夜が少しでも睡眠不足だといくら頑張っても講演では言語が明晰さを欠き、頭が多岐にわたって相関的に働かなくなる。そうなると質疑応答であらゆる角度から相手を言い含めたり反論したり出来なくなる。

 

睡眠に関してはいつも強く疑問に思っていることがある。それはいくら眠くても昼真は少しの仮眠(せいぜい20分)で、なぜ頭がすっきりするのかである。仮眠でなぜ頭の雑音(ノイズ)がシャッフル(棄却)されて、整序化される(つまりデフラグ)のかである。これは本当に不思議である。脳科学者はこれまで誰もその生化学的メカニズムを説明してくれていないのではないだろうか? 小生が知らないだけなのだろうか?

 

地球の自転に合わせた昼夜の「睡眠と覚醒のバイオリズム」は、げに玄妙な生物進化の産物だと思わざるを得ない。さまざまな精神病者の体験談を読むと、「不眠症」が原因か結果か判然としないのだが、ほとんどが「頭の働きが昼夜逆転していて、社会生活リズムに自分を適応矯正できない」という状況に陥っているようである。現代文明の産物はことごとくこの「バイオリズム」を異常に狂わせるような方向に発展(?)してきているので、いずれ世界人類は発狂するのではないだろうか、と思わざるを得ない。

  

だから、私見では、科学技術の発展も、<その技術や製品が人の「睡眠と覚醒のバイオリズム」に生活を合わせるように矯正していくことに貢献できるものであるかどうか>と言う点での評価基準が必要になってきているように思う。世界の若者(ばかりでなく誰もが!)が時間を忘れて夢中になっているコンピューターゲームソフトなどは最悪の文明の産物だと思う。マニアックな誹謗と中傷が支配するインターネット情報社会、ウイルスとアンチウイルスがやり合う留まるところを知らない闘いは、人類の精神の荒廃と崩壊過程を示しているように思う。

 

現代社会の危機の多くは<睡眠と覚醒のリズムが狂っている>ところから来るのではないだろうか。どこかの国の社会学者がそういう「睡眠と覚醒」という公理系で現代社会を切って見せてくれないだろうか。
  
 
(森敏)
追記:上記で紹介したように、日本学術会議が出版している「学術の動向」6月号
高齢化社会の食と医療ー心身の健康のためにー
という特集を組んでいる。別に学術会議に「よいしょ」するわけではないが、小生にとってこれほど学問の成果が身近に感じられた記事は近年ではあまり例がない。以下のタイトルの簡潔な4頁ごとの記事が掲載されている。余計な出しゃばりな物言いに聞こえるかも知れないが、これらは全高齢者が必読の記事ではないかと思う。

超高齢社会と地域医療ー医療変革と社会変革ー  寶金清博
生活習慣と健康 ー疫学研究からー 玉腰暁子
健康づくりのための催眠指針2014 内山真
がんの予防はどこまで可能なのか 浅香正博
認知症の早期発見と予防 下濱俊


 

2015-07-04 15:51 | カテゴリ:未分類

競泳の萩野公介、世界水泳出場を辞退 右ひじ関節を骨折

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新しい画像 

右手をギプスで固定して会見する萩野公介
 

 

 右ひじのけがで合宿先のフランスから緊急帰国した競泳男子日本代表の萩野公介(20)=東洋大=が3日、東京都内で会見し、右ひじの関節を骨折し、24日にロシアで開幕する世界選手権(競泳は8月2日から)への出場を辞退すると明らかにした。金岡恒治チームドクターは全治2カ月との見通しを示した。

 萩野によると、6月28日午後、宿泊先からプールへの移動中に自転車で転び、体を支えようと手を突いて骨折した。車道から歩道に乗り上げようとしてバランスを崩したという。:::(写真とも、朝日新聞からの転載です)

     

   

  小生は昔、自転車で車道から歩道に乗り上げようとして、前輪を持ち上げたが、車道と歩道の段差がおおきすぎて、後輪が段差にひっかかって左側に激しく横転し、歩道の2メートル先にたたきつけられた。急速な倒れ方であったので、からだが車道に投げ飛ばされたのだが、左手首、左肘、左脚膝の擦過傷ですんだ。幸い骨折を免れた。それは小生が中学校の時柔道をやっていたので、思わずからだが半身での受け身の姿勢で回転したからだと思う。

  

上述の写真のように、荻野幸介選手が同じ自転車事故を起こして、自責の念でしょぼんとしているのには同情の念を禁じ得ない。写真で見ると荻野選手は、右肘を骨折しているので、フランスでだからか、右側車線を自転車で走っていて、右側の歩道に乗り上げようとして、自転車の前輪か後輪が段差ですくわれたのだと思う。柔道でいえば右前足を「小外刈り」で掬われた状態で転んで、右腕の肘で直接制動したので、激しい力が一気にかかって骨折したのだろう。このとき彼が柔道を学んでおれば、とっさに体を丸めて、右肩から回転して、直撃のエネルギーを回転モーメントに無意識に変えて、骨折を回避できたであろうと思われる。

   

スポーツ選手に自転車に乗るなというのも酷だろうから、全てのスポーツ選手には最低限の柔道の受け身を習わせたらいかがかと思う。

     

小生の自転車事故の経験は以下のブログです。いまだに東京都でも人道と車道の段差をゼロにして斜めに勾配を付けられている所は僅少です。何か理由があるのでしょうが。。。

 
(森敏)
追記:以下の記事が載っていた。競技種目が多彩になり、少子化も原因して、小学生の柔道人口が減少しているようだ。残念なことだ。一度体で覚えた基本技としての「受け身」は、老人になっても、役に立つと思うのだが。


柔道:人口減に歯止め 小学生以下の全国指導団体が発足

毎日新聞 20150707日 1326分(最終更新 0707日 1327分)

 小学生以下の柔道人口の減少傾向に歯止めをかけようと、全日本柔道連盟(全柔連)は今月、「全国少年柔道協議会(少柔協)」を発足させた。各都道府県の指導団体を統括することで「現場」の声も反映した普及策を打ち出す方針。少柔協の山下泰裕会長(全柔連副会長)は「(地方と)信頼関係を築くのがまず大事だ」と意義を強調する。

 小学生以下の指導団体は、大学生や実業団のような全国組織がなかった。全柔連によると、昨年度の小学生以下の競技者登録者数は3万7111人。10年前の04年度(4万8873人)より1万人以上も減った。ただ対策を練ろうにも、スポーツ少年団や町道場など小学生らが柔道を習う場所は各地域で混在。全柔連の近石康宏専務理事は「組織もバラバラで一体感がなかった」と振り返る。

 少柔協は今月3日に初めての対策会議を講道館(東京都文京区)で開いた。会議には全47都道府県から代表者が出席。山下氏は「少年少女の柔道人口減少(の幅)は少子化の波以上に大きい」と危機感をあらわにし、「柔道人口がどう増えるのか一緒に考えていきたい」と力を込めた。会議では剣道や空手といった他の武道と協力してイベントを開催するなど、各地の取り組みも報告された。

 少柔協では当面、柔道教室の開催などを通じて地道に普及活動を行っていくという。柔道全体の競技人口も10年前に比べて約3万8000人減っている中で、裾野を広げることは何より重要。全国組織の発足を契機に、各地からより具体的なアイデアを集約して、実行に移していくことが求められている。【岩壁峻】

2015-06-28 14:25 | カテゴリ:未分類

「ウィキペデイア」によれば

イシワカメ(イシクラゲともいう:学名Nostoc commune)は、「日本では、北海道、本州、四国、九州に広く分布する。庭先や道ばたなど様々な裸地の地表、コンクリート面などで見られ、雨が降った後に藍緑色寒天質の膨潤した群体が突然目立つようになる。乾燥状態では地面にへばりついた黒いかさぶたのように見え、手で揉めば小片-粉末状に壊れる。」

 とある。 
 

     飯舘の比曽地区でコンクリートの車道脇にイシワカメを見いだした。これまで放射能汚染地で膨満したイシワカメを見たことがなかったので、試しにそれをすくい取って大学のもちかえって放射能を測定すると、

Kg生体重あたりで

Cs-134: 41,200 ベクレル, Cs-137: 174,000ベクレル

Kg乾物重あたりで

Cs-134: 404,000ベクレルCs-137: 1,760,000ベクレル

というにわかには信じがたい数値になった。この値は、小生がこれまでに測定した生物では最高値に近い。

 
  多分想像だが、このイシワカメの類は原発事故以前からこの道路脇で乾燥や吸水膨張を繰り返しながら、棲息し、原発事故後は、道路から流れ込んでくる、強烈に汚染した表面流去水を吸水しながらひたすら放射能をため込んできたのではないだろうか。
 

イシワカメはトレハロースが含量が高いので、「乾燥ストレス」にはめっぽう強いことが分かっている。つまり死んだように見えても、一部は生きているので、水が来ると急速に分裂再生するのである。今回は現地写真を撮るのを忘れた上にゲルマニウム半導体で測定前に写真を撮るのを忘れたので、U8カップでゲルマニウム半導体で測定後の乾燥した状態が以下の写真である。石のようにごりごりのイメージで、これは水につけてもすでにぶよぶよには回復しなかった。良質の色の濃い「浅草のり」のイメージである。
 
IMG_0754--.jpg 

直径4センチのゲルマニウム半導体検出器用の「U8プラスチックカップ」の底で乾燥固化したイシワカメ。
     
(森敏)
附記1:以前に富山県の貝化石鉱山の一画をお借りして、このアルカリ土壌で実験圃場を設けて合成鉄剤の現地試験をしているときに、ある時期にとつぜんこのぶよぶよのワカメが大量に涌いていたのでびっくりしたことがある。
以下のブログも参照ください。
http://moribin.blog114.fc2.com/blog-entry-318.html
 
附記2:これまで多くの研究者が「道路脇の黒い物質」とよんで、高放射線量であることを指摘してきていた物質の実体は、このイシワカメではないだろうか。海草のワカメとちがって、いったん強く乾燥すると非可逆に黒く固化して実体が不明になるが、あたらしく水分が供給され続けると吸水して発芽して細胞分裂していくとぶよぶよになるのである。我々のように外からたまに調査に来る人たちには、その時間経過の形態変化がわからなかったのではないだろうか。

2015-06-20 12:24 | カテゴリ:未分類

居住制限区域の営農許可 帰還困難区域条件付きで事業所設置

 政府の原子力災害現地対策本部は19日、東京電力福島第一原発事故に伴い設定された居住制限区域で本格出荷に向けた営農活動の実施を同日付で認めた。帰還困難区域で、社会基盤の復旧などに関わる事業所の再開・新設を可能とした。いずれも屋外の放射線量が毎時3.8マイクロシーベルト(年間積算線量20ミリシーベルト)を大きく超えない範囲であることが条件。
 同本部は、避難区域の放射線量が自然減衰や除染などにより徐々に低下していることを踏まえ、被災市町村と協議して決定した。農業者と事業者は、農地や事業所付近の線量や事業内容を市町村に申請し、同本部と市町村長の許可を得る。
 これまで居住制限区域(年間積算線量20ミリシーベルト超~50ミリシーベルト以下)では原則的に営農はできず、コメの実証・試験栽培が一部地域で例外的に認められてきた。
 今後はコメや野菜などを栽培し、放射性物質検査で食品衛生法の基準値を下回れば出荷できる。県によると、居住制限区域の農地は3千ヘクタールを超える。
 一方、帰還困難区域(年間積算線量50ミリシーベルト超)では、政府と市町村の協議で必要性が認められれば事業所を設置できる。対象は社会基盤の復旧業務や廃棄物処理、ガソリンスタンドなどを想定している。

2015/06/20 09:29 カテゴリー:福島民報

  この記事を読んで、恐怖を覚えない生物学研究者はいないと思う。毎時3.8マイクロシーベルトという放射線濃度は、ガンマ線線量計は連続音で鳴り続ける。付近の物にガイガーカウンターを近づければ高いところでは毎分1万カウント以上を示す恐怖の連続音で鳴り続けるだろう。東電福島第一原発暴発事故以来4年経過して、今では放射線や放射能に理解を十分に高めた現地農民からしても、驚くべき決定と受け止めれられているのではないだろうか。いくら除染した水田でも一日8時間野外勤務していればも優に30マイクロシーベルト前後は被曝するだろう。農家の意欲は理解できないわけではないが、本当にこんなところでも栽培したいのだろうか?生産されたお米がたとえ基準値以下であっても、ほかのお米と一緒に「福島産」のお米として流通するという考えは都市の子供たちを育てている消費者を甘く見ていないか?
 
  お米は完全に福島県によるチェックシステムが出来上がっているようだが、今後原発廃炉作業中でのアクシデントで原発からの粉塵被ばくなどで様々な玄米の異常値が各地で出た時に(2003年がそうであったことを忘れてはいけない)、このような場所の異常値をミソもくそも一緒にするような、原因を迷宮入りにする口実にも使われかねないだろう。ましてやこれまでも福島の全野菜の放射能チェックシステムは完全に出来上がっているということを聞いたことがない。福島産の野菜はますます窮地に立たされるだろう。東京のスーパーでは、福島産野菜は、茨木県産、群馬県産、長崎県産、熊本県産、鹿児島県産などとあえて混在させて売るという姑息なことをやっている所が時たまあるので呆れている。

  上記の福島民友新聞の記事の冒頭に出てくる「政府の原子力災害現地対策本部」なる組織の構成員の農業部門には誰が科学者として参画しているのだろうか? 
     
  現安倍内閣の「政治判断は日本国憲法に優先する」という勇猛果敢(?)な精神が「政治判断は科学に優先する」というところに国の末端組織である原子力災害現地対策本部にまで波及し、ますます暴走し始めたと思われる。    
 
  このことに限らず、次第に批判記事を書けない状況に追い込まれつつあるこの地方紙も情けない。
        
(森敏)
追記:以下、転載です。

20ミリ帰村で累積被曝は数シーベルトに

     2015618日 飯舘村/福島再生支援東海ネットワーク 事務局

 

 

  年間1ミリシーベルト上限とする放射線障害防護法の明確な逸脱であること。これ  

は国家そのものが法を破り、憲法に定められた生存権を公然と否定したことを意味している。これをまず確認しておこう。

  20ミリの被曝なら20年間では累積400ミリに達することになる。これ自体がすでに政府みずからの云う「100ミリまで安全」の4倍である。

  2011年の圧倒的な初期外部被曝がこれに加わってくる。例えば飯舘村長泥の2011315日〜410日の実効線量はほぼ毎時10020マイクロシーベルトであり、平均値は毎時51.7マイクロシーベルト。24時間屋外最大値では27日間で累積33,502マイクロ、つまり約34ミリシーベルト。避難完了の630日までなら51.7×24時間×75日=93,060マイクロ、つまり約93ミリシーベルトになる、

  内部被曝こそが特に深刻。政府の弁を信じて露地栽培の野菜を食べて(平均摂取量大人で0.6kg)いた場合、その実効線量は1517ミリシーベルトであり、これを仮に7ミリとしてもやはり75日では525ミリシーベルトにも達する。また吸入被曝約0.45ミリ×75日=33.8ミリを加算すると合計558ミリシーベルト。

 

これで避難前75日間の累積被曝線量は…

 外部93ミリ+内部558=約651ミリシーベルト

 これに県内避難後4年間の被曝量を加えれば、総累積はゆうに

 700ミリを越えることになる。

  なお幼児の場合の甲状腺等価線量では、75日で数千ミリという途方もない被曝量となってくる。甲状腺ガンはこれからも急増していくのは必定である。

 

  以上、詳しくは山田先生の報告書をご覧頂きたいが、とにかく大人で700ミリシーベルト以上、幼児甲状腺で数千ミリシーベルトに近い被曝をさせられてしまった飯館村の住民。この方々に対しさらに20年間で400ミリ以上となる被曝を加えようというのが、今回の「帰村」政策なのである。100ミリ安全論はもちろん間違っており、安全の基準はあくまで法規でいう年1ミリ以下でなくてはならない。その1,000倍以上の被曝を住民に強いようとしているのがこの「帰村」政策なのである。


 

 


2015-06-19 12:14 | カテゴリ:未分類

         ノーマン・ボーローグ博士は驚異的な多収性コムギの育成で1970年ノーベル平和賞を受賞した。世界的にコムギは約6億トン生産され、多くの国で主食の基幹穀物となっている(米は約4億トン)。この多収性コムギ育成の母本に稲塚権次郎氏が育成した農林10号(NORINTEN)が使われていることは農学関係者には農業技術史で学ぶはずであるから常識なのだが、他分野の方にはあまり知られていないかも知れない。この映画「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」は、現在北陸地方で上映されているようだが、是非全国で上映してもらいたいものだ。

          

映画要旨(転載です)

1987年、富山県城端町西明、三輪バイクで町を行く稲塚権次郎の姿があった。90歳近くなっても、バイクを乗りまわすことは近所迷惑となっていた。明治末期、貧しい農家の長男に生まれた権次郎は、向学心に溢れ、富山県立農学校(現在の南砺福野高校)を首席で卒業。恩師から学んだ「種の起源」(ダーウイン著)に出会う。貧しい農家を救うためには、美味しくて収量が高い米を作ることが大切、育種家の道を邁進し、東京帝国大学農学実科に進学。

  大正7年農商務省に入り、秋田県農事試験場陸羽支場(大曲)に配属。

 まず取り組んだのが「陸羽132号」の品種選抜、「水稲農林1号」の育種に取りかかる。権次郎は生真面目な性格、それゆえに周りに溶け込むことができない。上司の永井の勧めで「謡」を習うようになり、生涯の伴侶となる佐藤イトと出会う。幼少のころ父母を失ったイト、一目ぼれした権次郎は、ふるさと西明で祝言をあげた。大正15年、突然岩手への転勤を命じられる。岩手は小麦の育種が主流、美味しくて収量が高い稲の品種改良の夢は取り上げられた。稲の研究成果は、新潟農事試験場の並川に受け継がれ、「水稲農林1号」はやがて「コシヒカリ」となる。稲の育種の機会を奪われ失意に沈む権次郎だが、小麦増産が国家的プロジェクトであると知らされる。岩手県農事試験場に移り次々と小麦の新種を開発。

 

 昭和6年、9年と東北では大飢饉が起こり、各地で娘が売られるという悲惨な事態が起こった。権次郎は育種の成果をあげなくてはならなかった。昭和10年秋、小麦農林10号=NORINTENが完成した。特色は半矮性、従来の小麦に比べ、背の低い品種で穂が倒れにくく、栄養が行きわたりやすかった。

 

 昭和13年、権次郎は華北産業科学研究所(北京)に異動。イトも同行した。

14年には、父 竹次郎が死去。日本には戻れなかった。そして敗戦、中国側の意向により、研究指導の名目で留め置かれた権次郎にとって大きな不幸が訪れる。戦争末期の混乱により、イトが精神的に錯乱を起こすのだった。「イトを連れてくるんじゃなかった」権次郎は悔やみに悔やみきれないと、自分を責め、終生イトをいたわるのだった。

 

 昭和22年秋、中国から帰国。権次郎は育種家の道を諦め、地元金沢農政局に勤務、

戦後はイトとの穏やかな生活を選んだ。定年後は地元の農家のために、圃場整備に力を注いだ。昭和41年、母 こうを野焼きで見送った権次郎の元に、しばらくして思いがけない知らせが届いた。「小麦農林10号」の種が戦後米国に送られ、世界の食糧危機を救う、「緑の革命」の基になったというのである。ノーマン・ボーローグ博士は、その業績により、1970年にノーベル平和賞を受賞したのだった。

 

 昭和48年、最愛の妻イトが亡くなると、村人と共に、野焼きで見送った。

「妻 イトには中国で大変な苦労をかけてしまった」と悔やんだ。

 

 昭和56年、ノーマン・ボーローグ博士と対面。世界の小麦を変えた二人が手を握った。

 

 昭和63127日、稲塚権次郎死去。享年91。

 

 

 

(以下、南砺市ホームページより転載です)

城端地域の西明出身で世界の食糧危機を救った「緑の革命」の礎となる「小麦農林10号」を開発し、人類史に残る偉大な功績を残した偉人、稲塚権次郎氏の生涯を、遠戚にあたる稲塚監督が撮影した本作。設立当初の福野農学校の姿を今に残す「巖浄閣」をはじめ、市内各所でロケが行われました。このほど映画のポスターが完成。さらに、59()から行われる県内3(TOHOシネマズフォボーレ富山、富山シアター大都会、TOHOシネマズ高岡)での先行上映スケジュールも決定しました。
 ポスターの仕上がりに感心しきりの田中市長は、「本当に素晴らしいポスターになりましたね。仲代さん演じる権次郎さんの赤いシャツが見事に麦畑に映えて、本当に美しい!」と絶賛。さらに、支える会の松本久介会長から映画の題字を城端地域の書家山根美幸さんが手がけ、劇中歌として南砺の歌姫 林道美有紀さんが歌う「こきりこ」が採用されると聞き及ぶにつき、「南砺の偉人の生涯を描いたこの素晴らしい映画の良さをどんどん広げていきましょう。」と喜色満面。稲塚監督は「2年前に市長にお会いしてから、映画の製作・完成までが大変早かった。支える会の皆さんをはじめ、多くの方々にお力添えをいただけて本当に良かった。英語版の製作も進めており、今後多くの映画祭に出していきます。これを通じて南砺を世界にPRできると考えています。」と話されました。その後の歓談は、映画撮影経過や今後のPRなどについて大いに盛り上がりました。
 歓談後、インタビューに応じた稲塚監督は、「南砺に生まれ、世界的な功績を残した偉人 稲塚権次郎さんの物語を、皆さんの誇りとしてご覧になっていただければと思います。」と呼び掛けられました。
 南砺が誇る郷土の偉人の生涯を描いた傑作、ぜひ劇場に足をお運びになって、ご覧ください。